県政だより奈良
奈良の散歩

天皇即位
年表
向原寺

 推古天皇(額田部(ぬかたべ)皇女・炊屋姫(かしきやひめ))は、欽明天皇の娘で、母は蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)である。敏達(びだつ)天皇の皇后となり、592年の崇峻(すしゅん)天皇暗殺事件の後、39歳で即位し、日本初の女性天皇となった。初めは飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)(のち豊浦寺)で、次に小墾田宮(おはりだのみや)に移って政治を行った。仏教文化が大きく華開く時代が始まった。

 

隋に学んだ国づくり

 推古天皇の政治は、叔父の蘇我馬子や甥(おい)の厩戸皇子(うまやどのおうじ)(聖徳太子)によって支えられていた。特に聖徳太子を中心に推進されたとされる冠位12階や憲法17条は、日本を天皇中心の国家にしようとする表れであった。また、遣隋使を派遣して、隋に学び政治に反映させようとした。

 

馬子との確執

 馬子の勢力が強い中、推古天皇は時に毅然(きぜん)とした態度をとることもあった。馬子が先祖ゆかりの葛城の地を望んだとき、「その望みをかなえたら、後世私は愚かな女性と言われるでしょう。」といって断ったという。
 後継候補には、田村皇子(敏達天皇の孫)や山背大兄王(やましろのおおえのおう)(聖徳太子の息子)がいたが、指名することなく75歳で崩御した。

 

推古天皇の御陵

 遺骸(いがい)は、二つの石室を持つ双室墳である植山古墳(橿原市五条野町)に葬られたとされている。『日本書記』の記述に、息子の竹田皇子の墓に葬るように天皇が言い残したとあることから、二人の墓と推定されている。その後、推古天皇陵(大阪府太子町)に改葬されたとされている。
 710年の平城遷都からさかのぼること100年。中央集権国家建設に向けて動き出したのが、推古天皇の時代だった。

 




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