「厩戸」の由来 |
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聖徳太子(厩戸王(うまやとのおう)・上宮(かみつのみや)太子)は、574年に橘豊日(たちばなのとよひ)皇子(のちの用明天皇)の子として生まれた。母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女が、馬小屋の前で産気づいて男子を産んだので「厩戸」の名が付いたと伝わっている。
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仏教との関わり |
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587年、用明天皇の死後、仏教受容をめぐって争っていた蘇我馬子と物部守屋(もののべのもりや)が戦い、馬子が勝利した。この時、馬子側の太子が自ら彫った四天王像に戦勝を祈願したことが、四天王寺建立のきっかけになったという。
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国家の整備 |
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593年、推古天皇から摂政に任命され、これより推古・馬子・太子の3人を中心とした政治が始まった。603年に冠位十二階を制定。これは役人の地位を大徳から小智までの十二段階に分け、個人の業績によって位を与える制度であった。ただし、馬子たち主要な氏族はこの範囲外であった。604年には憲法十七条を制定。「和を以(もっ)て貴(とうと)しとなす」で始まる憲法は、今でいう役人の規則である。
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隋との国交 |
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607年、小野妹子を隋に派遣した。「日出(い)づる処(ところ)の天子」で始まる国書に隋の煬帝(ようだい)は激怒したが、翌年に裴世清(はいせいせい)を日本に派遣し、国交が結ばれたのは有名な話である。このほか歴史書『国記(こっき)』『天皇記』の編集を馬子と共同で行った。
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斑鳩での日々 |
605年に斑鳩(いかるが)宮に移って以降は、仏教への帰依(きえ)と研究に没頭したものと思われる。太子には、刀自古郎女(とじこのいらつめ)(蘇我馬子の娘。山背大兄王(やましろのおおえのおう)の母)をはじめ4人の妃がいたが、最も愛する膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)とほぼ時を同じくして、622年にこの世を去った。遺体は、河内の磯長(しなが)(現大阪府太子町)に葬られた。
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