近鉄吉野線が大阿太(おおあだ)駅を過ぎ、下市口駅に向かう中ほど、車窓の南が突然、明るく開け、景色が一変する。
眼前に吉野川がゆったりと水量豊かに流れ、川の向こうに低い緑の丘陵が続く。その雄大さ。
吉野川に架かる梁瀬(やなせ)橋の西に佐名伝(さなて)の集落がある。そこに今も残る「おいの池」。この池に、悲しい物語が伝わっている。
昔、昔のこと。百姓嘉兵衛(かへえ)においのという気立ての優しい、きれいな娘がいた。嫁にという若者もたくさんいたが、断り続けていたそうだ。
ある年の暮れ、おいのは使いに出た帰り、地蔵堂の前で人のうめき声を聞いた。墨染めの衣を着た若い僧が、にわかな腹痛で苦しんでいたのだ。おいのは、その僧を背負って家に帰り、父とともに懸命に介抱した。
僧の病気は、やがて治(おさ)まった。僧は南都興福寺の俊海といい、彼は翌朝、心から礼を述べ、また旅に出た。
ところが、その日以来、おいのの様子ががらりと変わった。物思いにふけり、やつれ、池のほとりにぼんやりと立って、時に涙を流している。初めて知った激しく切ない恋心。
ある雪の日、おいのはついに興福寺を訪れ、俊海に胸の内を告げた。
だが、俊海は、厳しい修行中の身。「命の恩人とはいえ、どうぞお許しください」といい、寺の中に消えた。
おいのは雪の降りしきる中、まんじゅう笠をかぶり、とぼとぼと村へ帰った。その二日後、池の青黒い水の底においのの姿があった。そして数日後、俊海は興福寺の猿沢池においののまんじゅう笠を見つけた。
それにしても、何と不思議なこと。村の池は、底の方で猿沢池とつながっているという昔からの言い伝えはやはり本当だったのか。
その日から、俊海の姿は忽然(こつぜん)と寺から消えた。俊海もまた秘めた恋心ゆえにおいののあとを追ったと噂(うわさ)された。こうして、佐名伝の池はいつしか「おいの池」と呼ばれた。
池面(いけも)は今も悲しみを湛(たた)え、青黒く沈んでいる。 |
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