県政だより奈良
奈良の散歩

斑鳩宮(いかるがのみや)と法隆寺
年表
法隆寺

 601年、聖徳太子は斑鳩の地に宮の造営をはじめ、605年には斑鳩宮に移った。法隆寺は金堂の薬師如来像光背銘によれば607年に太子によって創建されたというから、斑鳩宮に移った直後にその造営事業にとりかかっていたようだ。
 また、太子は四天王寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起寺・妙安寺も創建したと伝えられている。

 

三経義疏(さんぎょうぎしょ)の編さん

 斑鳩宮で太子は「法華(ほっけ)義疏」「維摩経(ゆいまきょう)義疏」「勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏」を編さんした。これらは経典の精密な注釈書で、その高度な内容からは、太子が驚くほど深く仏教の教義を理解していたことがうかがわれる。

 

和国の教主(きょうしゅ)

 鎌倉時代に浄土真宗を開いた親鸞(しんらん)は、太子のことを「和国の教主」と称(たた)えている。教主とは仏教の開祖釈迦のことをさす言葉だが、太子が日本における仏教の定着に果たした役割の大きさからそのように表現したのだろう。

 

伝説と太子信仰

 太子には、没後早くから様々な伝説がうまれた。一度に八人の言葉を聞き分けたとか、観音菩薩の化身であるとか、聖武天皇に生まれ変わって大仏を造立したなどといった伝説である。
 特に『日本書紀』にみえる太子が片岡の地(現在の香芝市・王寺町付近)で、飢者に出逢い食物や衣服を与えた。飢者の死後、墓を造り手厚く葬った。のちに太子の命により墓を調べると死体は消えていたという伝承は、その後様々なかたちで語り伝えられた。
 また、中世以降、法隆寺や四天王寺(大阪市)、叡福(えいふく)寺(大阪府太子町)を中心に、奇跡をおこす英雄としての太子信仰が世の中に広まっていった。




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