華麗なる蘇我一族 |
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蘇我氏は飛鳥時代の日本の政治を左右した存在である。祖先は応神(おうじん)天皇に仕えた武内宿禰(たけのうちのすくね)で、その子蘇我石河(そがのいしかわ)が初代である。五代蘇我稲目(いなめ)(馬子の父)は大和朝廷の大臣(おおおみ)となり、2人の娘を欽明(きんめい)天皇の妃(きさき)とし、そのうち堅塩媛(きたしひめ)は用明(ようめい)・推古(すいこ)両天皇の母、小姉君(こあねぎみ)は崇峻(すしゅん)天皇の母となった。馬子はこのような華麗なる一族に生まれた。
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仏教をめぐり物部氏と戦う |
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欽明天皇の時に百済から伝わった仏教を積極的に導入しようとする蘇我氏と、古来の神々を重んじて外国の宗教導入に反対する物部氏(もののべし)との間に激しい対立がおこった。それは朝廷の両雄、蘇我氏と物部氏の覇権争いでもあった。
蘇我馬子は父の代から続く対立に決着をつけるため、聖徳太子や他の豪族らと挙兵し、物部守屋(もののべのもりや)をついに攻め滅ぼした。そして飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺)を建立(こんりゅう)し、仏教興隆を促進する。
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馬子の絶大な権力 |
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蘇我馬子は、敏達(びだつ)・用明・崇峻・推古四代の天皇にわたって朝廷の実権を握った。天皇の地位をないがしろにした馬子に反発した崇峻天皇は、貢物の猪を見て、「この猪の首をはねるように、私もいやなやつの首をはねたい」と呟(つぶや)いた。それを知った馬子は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて天皇を暗殺させた。
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馬子の想定外 |
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姪にあたる推古天皇を即位させて馬子の実力は揺るぎないものになるはずだった。しかし天皇は馬子の言うことに簡単には従わず、甥の聖徳太子を摂政(せっしょう)にして、馬子に政治を委ねなかった。馬子は大きな権力を保持しながらも太子を中心とする天皇家と協調せざるを得ず、「天皇記」「国記」編さんなどの文化事業を太子とともに実施した。
馬子は聖徳太子より4年長く生き、推古天皇より2年早く死去した。飛鳥の石舞台古墳は馬子の墓といわれる。
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