県政だより奈良
奈良の散歩

秀才の評判が高かった入鹿
年表
五輪塔

 蘇我入鹿(そがのいるか)の父は蝦夷(えみし)、祖父は馬子(うまこ)である。馬子の死後蘇我氏への風当たりをかわすため、蝦夷は諸豪族と協調路線をとった。推古(すいこ)天皇崩御後の、蘇我氏とは直接血縁関係のない舒明(じょめい)天皇と皇極(こうぎょく)天皇の即位はその表れである。
 皇極天皇即位後、入鹿は、父蝦夷に代わって実権を握った。『日本書記』は「大臣(おおおみ)の児(こ)入鹿、自ら国政を執(と)り、威(いきおい) 父に勝れり」と記している。入鹿は中国から帰国した僧旻(みん)が開いた学問堂で一番の秀才であると評価された。

 

入鹿の独断

 蝦夷が、私的に大臣の冠である紫冠を入鹿に授けて大臣を譲った後、入鹿の専制ぶりはエスカレートしていく。
 入鹿は権力を揺るぎないものにしようと、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)(舒明天皇の子)を天皇に立てるべく、斑鳩宮を襲わせ、山背大兄王(やましろのおおえのおう)(聖徳太子の子)ら一族を滅ぼした。蝦夷は「入鹿はとんでもない愚か者だ。いつも独断で悪事を行う。自分の命も危ない」と罵(ののし)ったという。蝦夷の不安は的中し、入鹿はにわかに人望を失っていく。

 

入鹿の強権政治

 また、蝦夷・入鹿父子は飛鳥を展望できる甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を構え、蝦夷の館は「上の宮門(みかど)」、入鹿の館は「谷(はざま)の宮門」と呼び、子どもたちを「王子(みこ)」と呼ばせ、武力をもって警備を固めるなど専横ぶりをエスカレートさせた。

 

蘇我親子の最期

 入鹿の強権政治に反発したのは中臣鎌足(なかとみのかまたり)らであった。645年、入鹿は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と鎌足たちが計画した儀式に誘い出されて、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で斬殺された。蝦夷も自邸に火を放って自殺した。ここに蘇我稲目(いなめ)・馬子・蝦夷・入鹿と4代にわたって権勢を誇った蘇我氏本宗家は滅亡した。これを干支(えと)にちなんで「乙巳(いっし)の変」と呼ぶ。



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