新しい国造りへ−改革を志す |
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中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、大和国高市郡藤原に生まれた。中臣氏は代々朝廷の祭祀(さいし)担当だが、鎌足は学問を好み、僧旻(みん)に周易(しゅうえき)を学び、祭祀の仕事を辞退している。
7世紀前半、国内では蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子が絶大な権力をもつ一方で、東アジアでは唐が成立し、朝鮮半島の国々は権力の集中をめざしていた。鎌足はこの状況のなかで新しい国造りの必要を感じ、政治の改革を志したのだろう。
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中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇(てんじてんのう))との出会い |
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中臣鎌足は改革のパートナーを求め、軽皇子(かるのおうじ)(後の孝徳(こうとく)天皇)に接し、やがて中大兄皇子と出会った。きっかけは、法興寺(飛鳥寺)での蹴鞠(けまり)の会だといわれる。親交を結んだふたりは、留学僧、南淵請安(みなぶちのしょうあん)の塾への道すがら、蘇我氏討伐を密かに相談したという。
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新政府を支える |
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645年、中大兄皇子と鎌足らは飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿を暗殺し、蝦夷を自殺させた(乙巳(いっし)の変)。大化の改新の始まりである。鎌足は中大兄皇子に新しい天皇として軽皇子を進言し、自身は内臣(うちつおみ)に任命された。鎌足は中大兄皇子のよき相談役として、天智天皇の時代に至るまで政治に関与した。宴会の席で大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)が長槍を敷板に刺した際に、鎌足が激怒する天智天皇をとりなしたという、ふたりの親密さを示す逸話も伝わっている。
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藤原氏の祖 |
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鎌足は669年に近江大津で病に伏し、死去。死の前日、悲しんだ天智天皇は大海人皇子をつかわし、鎌足を内大臣に任じ、大織冠(たいしょくかん)と藤原姓を授けた。鎌足の墓は摂津の阿威山(あいやま)に造られたが、後に大和の多武峰(とうのみね)に移したとされる。奈良時代以降、名門貴族として繁栄を続けた藤原氏の初代として、鎌足の名は歴史に大きく刻まれている。
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