唐が朝鮮半島に侵攻するという緊張の中で、日本でも中央集権化の改革が進められていた。斉明天皇は支配力拡大のため、阿倍比羅夫(あべのひらふ)に命じて日本海側(現在の秋田地方)の蝦夷(えみし)征討を行った。また、飛鳥の大土木事業にも着手。後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)、多武峰(とうのみね)の両槻宮(ふたつきのみや)などの造営の他、運河を掘削し、大量の石材を運び、石垣を築いた。土木工事に多くの民衆を徴発し、「狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)」と批判を受けたが、天皇の権威を示す計画的な飛鳥京づくりが目指されていた。平成12年に酒船石(さかふねいし)遺跡で発掘された亀形石造物も祭祀のための導水施設と考えられる。近年の発掘調査で大土木工事の一端が明らかにされつつある。
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