天皇に代わり、歌を詠む |
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額田王は、はじめ大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)の妃(きさき)で十市皇女(とおいちのひめみこ)を生んだが、後に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智(てんじ)天皇)に見初(そ)められ、召されることになった。「万葉集」に長歌3首、短歌9首が収められている。その歌の魅力は、綿密な構成による潔さはもちろんのこと、歴史的な舞台で、詠(うた)われたという華やかさにある。額田王は、天皇が詠(よ)むべき歌を代わりに作ったり、宮廷の重要な儀礼で、皆の気持ちを代表し、場を一層盛り上げたりする役割を担っていた。
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戦いに臨み、士気を鼓舞する |
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「熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」(熟田津で船に乗って出発しようと、月の出を待っていると、潮も満ちてきた。さあ、今こそ船を漕ぎ出そう)勇壮な船出の光景が浮かぶこの歌が愛媛県松山市付近で詠まれたのは661年。当時、朝鮮半島情勢が緊迫。斉明(さいめい)天皇は百済(くだら)からの援軍要請に応え、瀬戸内海から九州に軍を進めていた。額田王は困難な戦いに立ち向かう人々を、天皇に代わり勇気づけた。
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古京(こきょう)との別れを詠む |
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「三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや」(三輪山をそんなに隠すのか、せめて雲だけでも、情けがあってほしい。隠すということがあるものか)斉明天皇の崩御と白村江(はくそんこう)の大敗という国内外の危機の中、中大兄皇子は、人心一新と防衛戦略から飛鳥を去り近江・大津宮(おおつのみや)への遷都を決断。額田王は宮人たちの惜別の気持ちを、遠ざかる三輪山に向かい詠いあげた。
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天智・天武天皇とのロマンスは? |
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668年、天智天皇は弟の大海人皇子、中臣鎌足(なかとみのかまたり)等の群臣を率いて近江・蒲生野(がもうの)に行幸(ぎょうこう)、春の野で狩りを催した。その時の歌が、「茜(あかね)指す 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のも)りは見ずや 君が袖振る」(紫草の野を散策していると、あなたは人目もはばからずに袖を振っている。野守りがきっと見ていますよ)それに応え、大海人皇子は「紫のにほえる妹(いも)を憎くあらば人妻故(ゆえ)に吾恋ひめやも」(紫草の花のように美しいあなたを、憎いと思うなら、すでにあなたは人の妻であるのに、どうして恋しく思いましょうか)と返歌する。このやりとりは天皇兄弟と額田王との恋の駆け引きとの解釈があるが、近年は、狩りの後で催された宴での余興的なやりとりとの解釈も出されている。私たちも時空を超えてその場に立ち会い、ふたりに確かめてみたくなる名歌である。 |