今春、義父が逝去した。15年間、入退院とリハビリを繰り返すハードな生活ではあったが、それでも老夫婦は常に「生」に前向きで、自宅での老老介護に全力投球の毎日であった。それが、風邪の治療の入院中にまさかの最期を迎えてしまったものだから、残された義母の気持ちは収(おさ)まりようがない。「あんたが看(み)てくれたからここまで生きられたんや」と、弔問に訪れた親戚が口々に慰めるのだが、『なぜ、たった3日で』と本人の口惜しさは募るばかりであった。
告別の瞬間は刻々と近づき、納棺師が化粧に来てくれた。じっと見ていた義母が「あの人たち素手でしてくれたよ」と安心したようにつぶやいた。さっきまで生命の宿っていた存在に対する愛惜が共感されることで、少しずつ生き残る者の覚悟ができたようだった。
抵抗のできない弱い立場の人への虐待が後を絶たない現代社会に、命の大切さをどのように次世代に伝えるのか。私たち自身、日々、一人ひとりの人を「生きる」「生きてきた」主体として認め、接しているだろうか。「人を送る」とは「人を大切にする生き方」を次世代に伝えるきっかけなのかもしれない。すぐに答えは出そうにもないが、もうすぐ我が家は初盆をむかえる。 |