夫の死後、子の草壁皇子とともに天皇をおかずに政治を行うが、草壁皇子が没すると、その子の軽皇子(かるのおうじ)(後の文武(もんむ)天皇)が成長するまでと、690年45歳で即位した。彼女は天武天皇の政治を引き継ぎ飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)を施行し、690年には庚寅年籍(こういんねんじゃく)を制定した。また、班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法(国が戸籍に基づき、6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)を支給し税をとる施策)を実施。藤原不比等(ふひと)(中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子)と協力し、律令を整備(大宝律令として完成)させるなど、国家の体制づくりを進めた。
律令国家づくりの総決算が、飛鳥から藤原京への遷都である。唐の都、長安にならった都で、本格的な政治都市を建設した。
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