謎の出自 |
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藤原不比等は、さまざまな意味でわからない人物である。彼は幼い頃、田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)によって山背国(やましろのくに)(のちの山城国)山科(やましな)で育てられた。教科書には太字で登場するが、正史である「続日本紀(しょくにほんぎ)」には官位の昇進などを除くと大きな記述はみられない。室町期に編纂(へんさん)された「尊卑文脉(そんぴぶんみゃく)」などの史料から彼の業績等が確認されるが、彼と同時代・近時代の史料に記録が少ない。彼の業績とされている事項は、議政官として関わってきたと思われる「大納言」以上の地位にあった時代のものである。
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律令の制定 |
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不比等の業績として顕著なものは700年に撰定(せんてい)が完了し、翌年施行された大宝律令(たいほうりつりょう)であろう。しかし、主たる編纂は天武(てんむ)天皇の皇子である刑部(おさかべ)親王であり、不比等がどう関わったのかは具体的にはわかっていない。大宝律令の前に作られた近江令(おうみりょう)や飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)には律(現在でいう刑法)がみられず、律と令がともに編纂されたのは大宝律令が初めてである。また718年には、養老律令の編纂を個人的に始めている。彼の死によって一応の完成はみるが、施行は孫の藤原仲麻呂まで待つことになる。両律令は内容に大きな相違がみられないのに、なぜ彼が養老律令を編纂をしたのか謎に包まれている。
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平城遷都 |
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不比等が政治に携わっていた頃の大事業に、710年の平城遷都もある。藤原遷都からわずか16年での遷都であった。元明(げんめい)天皇は「乗り気ではない」「朝廷の官人の提案だ」と詔(みことのり)で表明している。近年の発掘の結果、藤原京は5.3km四方であったことがわかっており、東西約4.3km、南北約4.8kmの“より小さな”平城京になぜ遷都をしたのかも、やはり謎である。
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律令国家形成に貢献 |
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不比等は娘を文武(もんむ)天皇や聖武(しょうむ)天皇の后(きさき)(光明皇后など)にして天皇家と密接な関係を築き、4人の息子たちはそれぞれ政府の要職についた。彼は藤原氏の繁栄を進めるとともに、日本の国家形成期に活躍をした実力者であった。 |