ことし2010年は、寅(とら)の年。寅といえば、寅の寺として有名な信貴山朝護孫子寺(しぎさんちょうごそんしじ)。寺伝では、その昔、聖徳太子がこの山で戦勝を祈願するや、毘沙門天(びしゃもんてん)を感得(かんとく)したという。その時が奇(く)しくも寅の年、寅の日、寅の刻であった。太子は毘沙門天を祀(まつ)り、この山を「信ずべき、貴(とうと)ぶべき山」として信貴山と名づけた。
信貴山といえば、「信貴山縁起(えんぎ)」。日本の絵巻物の代表傑作である。寺の中興の祖、命蓮(みょうれん)の奇跡譚(たん)を描き、「山崎長者(飛倉(とびくら))の巻」「延喜加持(えんぎかじ)の巻」「尼公(あまぎみ)の巻」の全三巻。
絵巻の舞台は平安中期。庶民の生活、登場人物の動作や表情が軽妙な筆致で生き生きと描かれている。
京都府の今の大山崎町。ここの裕福な長者のもとに時々不思議な鉢が飛来した。実は、奈良の信貴山から命蓮が法力で飛ばしていたのだ。
ふだんなら、その鉢にお布施のお米を入れると、鉢は勝手に信貴山へ帰るのだが、ある時、長者は鉢を倉の中に入れたまま忘れていた。
すると、さあ、大変。鉢は倉を持ち上げ、空高く飛んでいった。
屋敷は、大騒ぎとなった。長者と男衆らがその倉を必死で追っていくと、信貴山の命蓮の庵室(あんしつ)に着いた。長者はおそるおそる「倉を返してくれませんか。中にお米が百俵もつまっているのです」と頼んだ。命蓮も、長者を諌(いさ)めるのもこれくらいにしようと、米を返すことにした。ただし、「倉は置いておくように」と。
長者らは、はたと困った。大量の米俵をどうやって山中から山崎まで運べばいいのか。命蓮は言った。「鉢に米俵を一つ載せなさい」。
言われた通りにすると、不思議にも、倉から米俵が次々と転がり出て空を飛んでいった。長者は喜び、「こんなことなら、少しは信貴山に残しておけばよかった」と悔いた。
さて、山崎の長者の屋敷。百俵の米俵は、倉の跡にきちんと積み上げられていた。めでたし、めでたし。
信貴山で祀られている毘沙門天は家運隆盛、商売繁盛の仏。寅の年の初詣では、とくに賑わいそうだ。 |