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奈良の歴史散歩

皇族勢力の代表

 長屋王は、高市(たけち)皇子(天武(てんむ)天皇の長男)の子として生まれた。704年に正(しょう)四位上に叙され、710年には式部卿(しきぶきょう)となり、異例の出世をとげる。藤原不比等(ふひと)の死後は、最高位の左大臣となって政権を担当することになった。723年の三世一身(さんぜいっしん)の法など、中央集権国家としての律令制維持のため、思いきった政策を実施した。

 

長屋王の変

 王を追い落とそうとした藤原武智麻呂(むちまろ)(不比等の子)らの画策により、729年、漆部君足(ぬりべのきみたり)らが「長屋王は、国家を傾けようとしている」と訴え出ることになる。邸宅は六衛府(ろくえふ)の兵に囲まれ、王は舎人(とねり)親王(天武天皇の子)らの糾問をうけ、自殺する。夫人の吉備内親王(きびないしんのう)も男子4人とともに自殺していった。長屋王夫妻の墓は平群(へぐり)町にある。
 その後、藤原4兄弟は藤原4子政権を樹立するも、4人とも天然痘にかかり、死没する。王を自殺に追い込んだ祟(たた)りではないかと噂(うわさ)されたという。

 

長屋王邸宅と木簡

 1988年、発掘調査が行われていたデパート建設予定地で、邸宅跡が多量の木簡(長屋王家木簡)とともに発見され、長屋王邸と判明した。正殿が内裏正殿に匹敵する構造をもつなど、邸宅は大規模なものであった。
 また、漢詩なども含め、木簡からは王家の華麗なる生活がうかがえる。

 

文化・知識人として

 王は仏教に篤(あつ)く、個人の事業として『大般若経(だいはんにゃきょう)』600巻の書写を2度行っている。さらに、四言四句の願文をへりに刺繍した袈裟(けさ)千枚を唐の高僧に寄進しており、鑑真(がんじん)(唐招提寺(とうしょうだいじ)の開祖)来日の要因になったといわれている。
 一方、王は『懐風藻(かいふうそう)』の漢詩や『万葉集』の和歌にもその名を残している。

三世一身の法…新たに灌漑施設を設けて開墾した者には3代(子・孫・曾孫)にわたり、旧来の灌漑施設を利用して開墾した場合は本人1代のあいだ、田地の保有を認めるというもの

長屋王邸宅

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