天武(てんむ)天皇の国史編纂(さん)の詔(みことのり) |
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壬申(じんしん)の乱を制して即位した天武天皇は、正しい歴史を後世に伝えるため『帝紀(ていき)(天皇家の系譜)』や『旧辞(きゅうじ)(説話や伝承など)』を舎人(とねり)(下級の官人)の稗田阿礼(ひえだのあれ)によみならわせた。阿礼は大変聡明で、一度目にしたり耳で聞いたりしたことは忘れないという抜群の記憶力を持っていた。しかし、天武天皇は686年に亡くなり、国史は完成をみないまま20年余りが過ぎた。
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元明(げんめい)天皇から太安万侶への下命 |
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平城京への遷都を行った元明天皇は、律令国家が確立され国家意識が高まったことを反映して、中断していた国史の編纂を再びこころざした。天皇は711年に太安万侶に稗田阿礼がよみならっていた『帝紀』『旧辞』を書物に著して献上せよと命じ、翌年の712年、『古事記』が完成した。
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『古事記』の表記での工夫 |
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『古事記』が編纂された当時はまだ仮名はなかった。日本語を漢字で表記するのに苦労したことを安万侶は『古事記』の序文で述べている。そこで彼は記述にあたっていろいろ工夫をこらした。例えば、一句の中に漢字の音と訓を交えて用いたり、一つの事柄の全部を漢字の訓だけで表現したりなどである。こうして完成した『古事記』での活躍が認められた安万侶は、舎人親王らとともに『日本書紀』の編纂にも参加したとされる。
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安万侶の死と墓の発見 |
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『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば安万侶は723年に没した。1979年、奈良市此瀬(このせ)町の茶畑から火葬された人骨と銅製の墓誌が発見された。墓誌には『…従四位下勲五等太朝臣安萬(万)侶(じゅうしいのげくんごとうおおあそんやすまろ)以癸亥年(みずのといのとし)七月六日卒…』とあり、これが安万侶の墓であることが確認された。現在、墓誌は重要文化財、発見の地は国の史跡になっている。 |