仏教の実践と社会事業 |
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行基は、668年、河内国大鳥郡(かわちのくに おおとりぐん)(現大阪府堺市)で渡来系氏族の家に生まれ、682年に出家した。行基は、当時僧侶が禁止されていた民間への布教を行い、寺を開き、多くの人々が徳を慕って行基に従ったという。また、弟子等を率いて各地で橋や池などを築造し、平城京と地方を往来する人々の宿泊施設を作るなど、社会事業にも貢献したことで知られる。
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弾圧と懐柔 |
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行基の布教活動は、むやみに罪福を説いて民衆を惑わし、政府の許可無く民衆を出家させたとして、政府の弾圧を招いた。しかし、律令制度のもと土地政策に苦闘する政府は、民衆を動員して灌漑(かん がい)用の池や田地の開発を行う行基の力を評価し、行基の弟子たちの出家を認めるようになった。
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東大寺大仏造営への参加 |
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聖武天皇が大仏の造営に民衆の参加を呼びかけると、行基は弟子たちを率いて大仏造営の勧進(かん じん)に尽力した。この業績に、行基は大僧正に任じられた。749年、行基は大仏の完成を待たず菅原寺(奈良市)で亡くなり、遺言で生駒山の麓に葬られた。仏道に励み社会事業にも尽力した行基は、当時の人々から行基菩薩と呼ばれ慕われた。
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続く行基への信仰 |
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1235年、ある僧侶へのお告げに従って行基墓を開掘すると、地中から行基の墓誌が刻まれた金銅製円筒形舎利容器と遺骨が出土し、この奇瑞(きずい)に行基信仰が高まった。江戸時代にも行基の千年忌、千百年忌にあわせて供養塔が県内各地に建てられるなど、行基はその死後も人々の信仰を集め続けた。 |