唐の玄宗(げんそう)皇帝は、鑑真らの渡日を許可しなかったため、1回目の出航(密出国)では、栄叡らは検挙され投獄された。渡海だけでなく出国も命懸けであった。以後、たび重なる渡航の失敗と鑑真の失明、栄叡や弟子の死などを乗り越えて、6度目の挑戦で現在の鹿児島県に到着した。翌754年、鑑真は平城京に到着し、東大寺大仏殿の前に戒壇(かいだん)を築き、上皇や天皇ら440名に国内初の授戒を行った。その後、東大寺戒壇院を建立し、ここで受戒した者だけが僧と認められ、日本仏教界の戒律の乱れが正された。晩年、鑑真は東大寺を去って、唐招提寺を開き戒壇を設けた。
「若葉して 御目(おんめ)の雫(しずく) 拭(ぬぐ)はばや」
仏教だけに限らない医学や建築技術など多方面に及ぶ功績を残したにもかかわらず、鑑真のその波乱に満ちた生涯を詠んだ芭蕉の名句である。
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