政界の頂点に立つ |
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奈良時代、貴族である藤原南家(なんけ)に生まれた仲麻呂は、幼少より聡明(そうめい)でよく勉強し、長(ちょう)じて政界で頭角を現した。天平文化華やかな時期、大仏造立などに功績を残した仲麻呂は、光明皇后(こうみょうこうごう)の信任を得て政界で勢力をのばした。
そして758年、淳仁(じゅんにん)天皇が即位すると、仲麻呂は、天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜(たまわ)るなど格別の待遇を得た。恵美押勝とは、人民を「恵む美」が優れ、乱を防いで「押し勝つ」功績があったという、彼を讃(たた)える名称である。
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唐風(とうふう)を好む |
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仲麻呂は、算術に優れ歴史に詳しく、唐風を趣味とした。当時の日本は、政治体制も文化も中国の唐を手本にしていたため、学問好きの仲麻呂は、万事に唐風を学びそれに従った。
権力を握ってからは、天皇の尊号だけでなく、太政大臣(だいじょうだいじん)を大師にするなど官名も唐風の名称に変えた。遣唐使がもたらす唐文化は、仲麻呂に唐へのあこがれをかき立てた。
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権勢の翳(かげ)り |
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奈良時代の政界は権力闘争があいついだ。ライバルを抑え、太政大臣にのぼり、内政や外交に積極的に取り組んだ仲麻呂にも、落日が訪れる。契機は、彼の権勢を支えてきた光明皇太后(こうたいごう)が760年に死去したことであった。
淳仁天皇は仲麻呂の傀儡(かいらい)にすぎず、翌年に実力者の孝謙太上天皇(こうけんだいじょうてんのう)と不和に陥った仲麻呂政権は、急速に翳りを見せ始めた。
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恵美押勝の乱 |
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孝謙太上天皇の寵愛(ちょうあい)を受けた道鏡(どうきょう)が勢力を強めるなか、不安を感じた仲麻呂は、軍事権の掌握を考えたが露見(ろけん)し、近江国(おうみのくに)(今の滋賀県)に走って反乱軍として政府と戦うこととなる。しかし、仲麻呂は敗れ、近江国高島郡(たかしまぐん)で捕らえられて斬殺された。享年59歳。妻子や従党も斬られ、栄華と没落の両極を体験した波乱の一生を終えた。
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