道鏡の登場 |
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道鏡は、物部(もののべ)氏の一族である弓削(ゆげ)氏の出自で、河内国(かわちのくに)(大阪府東部)で誕生したと伝えられる。東大寺の良弁(ろうべん)僧正のもとで修行した後、宮中で看病禅師として出仕していた。医学・薬学の知識が豊富であり、修験道(しゅげんどう)に通じ、梵語(ぼんご)(古代インドの言語)を習得していたともいわれる。
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孝謙太上(こうけんだいじょう)天皇との出会い |
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聖武天皇と光明皇后の娘である孝謙太上天皇は、近江国保良宮(ほらのみや)(滋賀県大津市付近か)に滞在中、病に倒れた。その時、看病にあたったのが道鏡であった。以後、道鏡は孝謙太上天皇に重用され、太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ)、さらには法王(ほうおう)に任ぜられ、異例の出世をとげた。
この間、権力を掌握していた藤原仲麻呂(なかまろ)(恵美押勝(えみのおしかつ))が反乱をおこして失脚し、孝謙太上天皇は重祚(ちょうそ)(再び即位すること)して、称徳(しょうとく)天皇となった。
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道鏡と称徳天皇の政策 |
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道鏡は、称徳天皇とともに仏教による政権安定策を次々とうちだした。
土地政策では、寺領を除き、貴族の土地開発を禁止した。また、鷹・犬等を猟することを禁止し、諸国から京へ肉や魚を献上することを止めさせた。さらに、右京の広大な敷地に西大寺(さいだいじ)の造営を開始し、東大寺に対する西の大寺とした。西大寺のかたわらには、西隆寺(さいりゅうじ)(現、ならファミリー周辺)という尼寺の造営もはじめた。
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怪僧道鏡? |
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769年、称徳天皇が宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の神託(しんたく)をうけて道鏡に皇位を譲ろうとする事件がおこったが、和気清麻呂(わけのきよまろ)らに阻止された。この背景には、道鏡と藤原氏ら貴族との対立があったようである。
称徳天皇が亡くなると、後ろ盾を失った道鏡は、下野国(しもつけのくに)薬師寺(栃木県下野市)に追放され、そこで死去した。
正倉院宝物には、道鏡の手紙が残されている。雄渾闊達(ゆうこんかったつ)な書で、剛胆な人物像が浮かびあがる。
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