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奈良の歴史散歩

文人としての基礎を培った大宰府

 大伴家持は、大伴旅人(たびと)の子として生まれる。父と同様、政治家として活動する一方で、歌人としても頭角を現し『万葉集』の編者と考えられている。
 歌人としての家持に大きな影響を与えたのは、父の任官により大宰府に赴いた10歳の頃である。当時の大宰府には、山上憶良(やまのうえのおくら)をはじめとする筑紫(ちくし)歌壇を形成していた文人が多く滞在しており、家持は恵まれた文化的環境のもとで少年時代を過ごした。

 

万葉歌人としての家持

 家持の作品は473首(479首とする説もある)、約4500首を収録する『万葉集』で最多である。これらの作品は父旅人の没後1年を経た15歳から詠まれた。やがて越中守(えっちゅうのかみ)として赴任後5年間で全作品の半分近くの220首を詠む。このころは政治家としても充実し、家持の作風が鍛えられた時期でもある。
 帰京後、兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)となり難波で防人(さきもり)に関わったことで、『万葉集』における「防人歌(さきもりのうた)」の収集につながる。しかし、その後は政治的に不如意な状態が続き、因幡国(いなばのくに)で42歳の時に詠まれた歌が最後となる。

 

政争を生き抜いた政治家

 家持は、中央・地方の諸官を歴任するが、それは左遷と中央復帰の繰り返しでもあった。越中守として橘諸兄(たちばなのもろえ)を支えるが、藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))・道鏡らの下では数々の政権争いに関与したとされ、いく度も左遷される。しかし、その都度不死鳥のように中央政界に復帰して天平の政争を生き抜く。中納言に昇進するが、わずか2年後、持節征東将軍(じせつせいとうしょうぐん)として滞在していた陸奥国(むつのくに)で68歳で亡くなる。
 死後一月を経ずに、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件への関与が明るみに出て除名される。803年恩赦により従三位(じゅさんみ)に復されるが、死してなお政争に関与したことが、政治家としての家持の一生を象徴するようでもある。

 

 

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