家持は、中央・地方の諸官を歴任するが、それは左遷と中央復帰の繰り返しでもあった。越中守として橘諸兄(たちばなのもろえ)を支えるが、藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))・道鏡らの下では数々の政権争いに関与したとされ、いく度も左遷される。しかし、その都度不死鳥のように中央政界に復帰して天平の政争を生き抜く。中納言に昇進するが、わずか2年後、持節征東将軍(じせつせいとうしょうぐん)として滞在していた陸奥国(むつのくに)で68歳で亡くなる。
死後一月を経ずに、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件への関与が明るみに出て除名される。803年恩赦により従三位(じゅさんみ)に復されるが、死してなお政争に関与したことが、政治家としての家持の一生を象徴するようでもある。
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