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記紀に親しむ

〈大物主大神(おおものぬしのおおかみ)と意富多々泥古(おおたたねこ)〉
 『古事記』には、崇神天皇(すじんてんのう)の御代(みよ)に疫病が大流行し、人民が死に絶えるかという事態にまでなったと記されています。大いに憂えた天皇は、「神寐(かむとこ)」に休み、神託(しんたく)を受けようとします。果たしてその夜、大物主大神が夢の中に現れて、意富多々泥古に私を祀(まつ)らせるならば、祟(たた)りによる病も起こらず、国も安らかに治まるだろうと告げました。
 さっそく早馬(はやうま)による急使を派遣して「意富多々泥古」なる人物を捜し求めたところ、河内国美努村(かわちのくにみののむら)で発見されたということです。
 神託によって名指しされた彼は、一体何者なのでしょうか。天皇がお前は誰の子かと尋ねると、自分は大物主大神の後裔(こうえい)であると名乗ります。大物主大神が活玉依毘売(いくたまよりびめ)と結ばれて生まれた櫛御方命(くしみかたのみこと)の子どもである飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)の、そのまた子どもである建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子どもだとありますから、大物主大神から数えて五代目ということになります。
 
〈三輪山の神との結婚〉
 活玉依毘売は非常に美しい女性でした。あるとき一人の立派な若者が現れて愛し合うようになり、すぐに彼女は妊娠したとあります。そこで、彼女の両親が不思議に思い、夫もいないのにどうして身ごもったのかと尋ねると、美しい若者が夜毎にやって来てともに過ごす内に自然と身ごもったというのでした。
 古代の結婚は一夫多妻制で別居も多く、男性が女性の部屋を訪ねるという通い婚の習慣がありました。そのためこのように、両親が知らないうちに娘のもとに通う男性ができたということも、実際にあったのだろうと思います。
 さて、両親はその男の素性を知ろうとして、娘に赤土(あかつち)を床の前にまかせ、麻糸を針に通したものを用意しておいて男の着物の裾に刺すように指示します。朝になって見てみると、麻糸は戸の鍵穴から外に抜け通っていました。糸をたどっていくと、三輪山の神の社に続いていたことから、彼が三輪山の神であると知ったといいます。
 このとき、彼女の手元の糸巻に残されていた麻糸が三巻だったことから、その地を三輪と名付けたということです。
 
〈三輪山伝説の意味〉
 崇神天皇は、こうして大物主大神を祀ることで疫病をおさめ、国を平安に導いたとあります。このほかにも、孝元(こうげん)天皇の子である建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆を押さえ、諸国を平定して初めて貢ぎ物を献上させたことなども記されています。
 いずれも国の基盤を築いたことを示すエピソードであり、それをたたえて崇神天皇は「初国(はつくに)を知らす御真木天皇(みまきのすめらみこと)」と呼ばれたとされています。神代から人代へ移るいわば過渡期に位置づけられた、重要な君主像であるといえます。

 

古事記の舞台へ
大神(おおみわ)神社
日本最古の神社といわれる大神神社は、三輪山をご神体とする。本殿はなく、拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して三輪山を拝するという、原初の神祀りの姿を受け継いでいる。大物主大神をご祭神とし、1年を通して大勢の参拝客が訪れる。
 
(行き方)大神神社へは、JR三輪駅から、東へ徒歩約400m。JR・近鉄桜井駅から奈良交通バス「三輪明神参道口」下車、約800m。

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