〈雄略天皇を取り巻く女性達〉 |
『古事記』の雄略天皇像は、数々の恋物語で彩られています。仁徳天皇の皇女である若日下部王(わかくさかべのみこ)と、都夫良意富美(つぶらおおみ)の娘である韓比売(からひめ)を娶(めと)ったとありますが、それ以外にも、引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)や吉野の童女(おとめ)、丸邇(わに)氏の袁杼比売(おどひめ)との恋歌のやりとりが記されています。
一方『日本書紀』では、一族を攻めた後に戦利品のように皇后や妃を娶ったり、簡単に人を殺(あや)めたり、残虐な「大悪(だいあく)天皇」として描かれています。また、皇后や妃の名前や人数など、『古事記』とは違う系譜が記されています。 |
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〈赤猪子の場合〉 |
雄略天皇の恋物語のなかでも印象的なのが、赤猪子とのエピソードです。長谷朝倉宮(はつせのあさくらのみや)で天下を治めていた雄略天皇は、あるとき美和河(みわがわ)(初瀬川の下流)で見目麗(みめうるわ)しい少女に出会います。天皇は一目で気に入り「おまえは誰の子か」と尋ねると、少女は「私は引田部の赤猪子と申します」と答えました。「おまえは誰にも嫁がずにいなさい。そのうち私が宮中に召そう」と、彼女との結婚を約束して、天皇は宮に帰りました。
その後、赤猪子は天皇の言葉を信じてお召しを待ちますが、何の音沙汰もないまま、なんと八十年もの年月が過ぎてしまいます。そこで彼女は、せめて待ち続けた誠意だけでも天皇に打ち明けたいと思い、意を決して宮中へ参内します。天皇は彼女のことをすっかり忘れていましたが、事情を聞いて約束を思い出し、赤猪子を不憫(ふびん)に思って歌と品物を贈ったということです。
そのうちの一つに「御諸(みもろ)の厳白檮(いつかし)がもと白檮(かし)がもとゆゆしきかも白檮原童女(かしはらおとめ)(古事記歌謡92)」という歌があります。三輪の社にある神聖な樫の木が忌みはばかられるように、近寄りがたい樫原の乙女よ、と赤猪子は巫女として表現されています。引田部は辟田(ひきた)(桜井市初瀬付近)にちなむ名で、大三輪氏に連なる一族として、曳田(ひきた)神社(桜井市白河)の祭祀を行ったとされています。 |
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〈大王のプロポーズ〉 |
『万葉集』の巻頭歌(巻1・一番歌)も、雄略天皇の求婚の歌です。あるとき菜摘(なつみ)をする娘に行き会い、一目惚れをした天皇が彼女の家と名前を尋ねるという内容で、自分はこの大和国を治める大王であると名乗り、安心して家と名前を告げるよう娘を促します。
赤猪子とのやり取りにも出自を尋ねる場面がありましたが、古代では名前を尋ねることがプロポーズを意味していました。名前はその人の魂そのものであり、女性がめったに本名を明かさないのはそのためだったともいわれています。
大王の結婚には、王権の強化という側面があります。『古事記』にしても『万葉集』にしても、雄略天皇が恋多き天皇として描かれたのは、彼が王権が強化された画期の大王として位置づけられていたからだと考えられます。 |