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歌の聖(ひじり)、人麻呂。しかし、その一生は額田王(ぬかたのおおきみ)にもまして、謎の多い人物である。人麻呂が活躍した時代は、天武朝から文武(もんむ)朝にかけて(六七二―七〇七年)であるが、基本的には持統朝(六八六―六九七年)の歌人と考えてよい。というより、持統朝に大舞台を与えられていた歌人だったということができる。 孫の軽皇子(かるのみこ)の成長を待つために皇位についた祖母・持統天皇にとって、軽皇子の狩りは、待ちに待った一大イベントであった。当時、狩りは皇子が成人したことを内外に示す大切な行事であったからだ。軽皇子は、西暦六九七年に即位、後に文武天皇と呼ばれることになる。皇子たちの一行は、都を出て、岩も多く、樹々も深い山深い道を押し靡(なび)かせて進むように楽々と進んで、安騎野に着いたと長歌で歌う。そして、長歌の後半と短歌では、亡き父・日並皇子(ひなみしのみこ)に思いをはせる皇子の姿が歌われている。 その第三短歌は、あまりにも有名である。したがって、この第三短歌は、長歌と他の短歌三首とともに鑑賞してほしい。仮に訳を示すと、
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