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飛鳥の宮殿というと、古い時代を連想するが、じっさいわれわれが知る飛鳥の歴史は、それほど古くない。飛鳥時代は、およそ六世紀末の推古天皇の豊浦宮(明日香村豊浦(とゆら))から始まる。 その後、小墾田(おはりた)宮(推古天皇)、飛鳥岡本宮(舒明(じょめい)天皇)、飛鳥板蓋(いたぶき)宮(皇極(こうぎょく)天皇)、後(のちの)飛鳥岡本宮(斉明(さいめい)天皇)、飛鳥浄御原(きよみはら)宮(天武天皇)など、国家の中枢となる宮殿が、時代を追って築かれる。このうち、飛鳥岡本宮以下が、ほぼ同じ場所(伝板蓋宮跡一帯)に建てなおされた宮殿であったことは、県立橿原考古学研究所の発掘成果により、近年では常識となりつつある。 |
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《『万葉集』のなかの飛鳥諸宮》 | |||||||
一方、『万葉集』に目を向けると、標目(ひょうもく)(目次・見出し)には現れるものの、飛鳥時代に飛鳥の宮殿を詠んだ歌はほとんどない。しかも、ほとんどないなかで、なぜか浄御原宮に集中し、またその浄御原宮ですら、天武天皇の時代の宮讃(みやぼ)め歌はなく、後の挽歌(ばんか)に現れるのみである。有名な飛鳥の宮殿の歌は、たとえば①②のような遷都歌であったり、③④のような平城京の時代に古郷飛鳥を懐かしむ歌ばかりで、目前にある立派な宮殿を見て詠まれたものではない。 しかし、⑤⑥の歌をどう解するかで、また評価も分かれるであろう。詳しく紹介はできないが、六七二年の壬申の乱平定後の歌として伝わるこの二首の末句の「都」は、飛鳥浄御原宮か藤原宮(橿原市)のいずれかを指している。何もないところを都に変えたという歌の内容や時期から考えると、天武五年(六七六)に造営が開始された藤原宮であろうが、歌の内容を宮の造営から切り離して、天武天皇の偉業自体を称(たた)えたものとみれば、天武天皇がじっさいに居住した飛鳥浄御原宮のこととも言い得る。さて、いずれか。 |
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