ここでは、古事記・日本書紀、万葉集にゆかりの深い人物たちが登場。
その人生や、歴史に果たした役割を振り返ります。
これまで名前しか知らなかった人物に心惹かれ、
いつの間にやらファンになっているかも!?
皇子の時、大海人と名乗った天武天皇の生年は不明だが、兄の中大兄皇子(天智天皇)より5歳年少とする説が有力。その兄の娘・鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ・持統天皇)を后とする。
はじめ皇太子の地位にあったが、天智天皇が子の大友皇子を後継者にしようとした意向を察知して、出家。吉野山中に隠棲し、機会を伺って挙兵した。壬申の乱である。勝利を治めたことで、飛鳥浄御原宮で即位した。
有力豪族の力を削ぎ、律令政治を整備するなど天皇への権力集中を推進した。天武天皇の命により『古事記』『日本書紀』の編纂事業が開始されたことが、「記紀」に記される。
天武天皇亡き後、我が子・草壁皇子も病没したため自らが即位した持統天皇は、皇位を孫の軽皇子(文武天皇)へ譲るまで、夫が手がけた律令制定事業に力を注いだ。藤原京への遷都も果たした。
たびたび天武・持統朝の原点ともいえる吉野へ行幸したことでも有名。その数は30回以上にも及び、『日本書紀』にその事蹟が記載される。
天武天皇の命で『帝紀』『旧辞』を誦習した稗田阿礼。いったん見たもの・聞いたことは忘れない、天才的記憶力と理解力を発揮した舎人だったという。この作業は天武天皇の崩御により一時途切れるが、後を継いだ元明天皇が「稗田阿礼誦む所」を撰録して献上するよう太安万侶に命令し、ここに『古事記』が完成した。
『古事記』巻頭の序文は安万侶が元明天皇へ奉った「上表文」だが、駢麗体(べんれいたい・隋〜唐時代に流行した文体)の見事な文であるという。この二人の天才なくして、『古事記』のクオリティは成立しなかったかもしれない。
ところで「稗田阿礼は男か女か」という論争が江戸後期に巻き起こっている。
女性説は名前の持つ響き、稗田氏が女性を宮中へ遣わす猨女君(さるめのきみ)と同じ天鈿女命(あまのうずめのみこと)の末であるなどの伝承から、平田篤胤らが唱えたもの。
ただ、性別の記載はないものの「舎人」と書かれているから、通説通りの男性説が有力なようだが…。はたして。
「乙巳(いっし)の変」で中大兄皇子とともに蘇我入鹿を暗殺した中臣(藤原)鎌足の次男。父の賜った“藤原姓”を自分の子孫で独占できるよう画策、他の一族はすべて元の中臣姓へ戻した。
後に妻となる県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)の助けを得て、長女・宮子の入内に成功。文武天皇の他の配偶者から称号を剥奪して文武夫人を宮子のみに限定し、首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)を立太子させた。
さらに後妻の三千代との間に産まれた光明子を皇太子の妃にすえるなど、数々の手法で皇室との関係を深めていく。
そうした画策の一方で、大宝律令の制定事業に加わり、平城遷都を推進するなど、功績も数えきれない。720年、61歳で病没(『懐風藻』では63歳)。死後、太政大臣・正一位となり、近江12郡に封じて淡海公(たんかいこう)の称号が贈られた。息子たちは歴史に名高き「藤原四家」を興している。
『日本書紀』の編纂に深く関わった可能性はあるが、まだ明らかにはなっていない。
允恭天皇の御子で、兄・安康天皇が眉輪王(まよわのおおきみ)に殺されたことを契機に、他の皇子たちを殺して即位した。
眉輪王を、かくまった葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)ともども滅ぼして葛城臣の勢力を削ぎ、数度の反乱を起こした吉備臣も没落させた。しかし一方で大伴連、物部連らを重用している。
職分をまっとうしえない者に斬りかかり、批判した者の身分を落とした。誤って人を殺すなど専制・武断的描写が多く、ゆえに「大悪天皇」と陰口されたという。そうした反面、数々の求婚譚でも名を馳せている。
葛城の一言主神との邂逅では神に弓引く姿も見せた。『古事記』には後に礼儀を尽くしたとあるが、『日本書紀』では一緒に狩りを楽しんだと続く。
大泊瀬幼武(おおはつせのわかたけ)ともいい、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘、熊本県の江田船山古墳出土の大刀銘に“ワカタケル”と読める文字が見つかったことから、雄略が『宋書』にある“倭王”武を示すと考えられるにいたっている。
景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の歴朝を支えたとされる伝説上の人物。孝元天皇の孫または曾孫と伝えられ、子供である七人の男子が巨勢・蘇我・葛城・平群・紀氏ら27氏族の祖となったという。
天皇の命を受け筑紫から東国まで巡察し、各地の情勢を伝えるといった有能な大臣としての側面と、審神者(さにわ・神託の真意を解釈して伝える者)を務めるシャーマン的な側面をあわせ持つ。
応神天皇の御代には、弟の甘美内(うましうち)宿禰の讒言で窮地に陥るが、磯城川(初瀬川と推定される)での探湯(くかたち・神に誓って熱湯に手を入れ、正しければ手はただれないとする古代の正邪判定法)で潔白を証明するなど、長寿の人生エピソードは多彩だ。
もっとも存在感を示すのは神功皇后時代。仲哀天皇崩御の後、残された身重の皇后を支え、八面六臂の活躍をみせた。
祖先伝承を持たない蘇我氏が、自身の系図に利用したことでも知られる。
景行天皇の皇子で、幼名は小碓尊(おうすのみこと)または日本童男(やまとおぐな)といった伝説上の人物。日本武尊の名は、尊が討った熊襲の首長が死の間際に献呈した尊称で、“大和の勇者”を表す。
熊襲との闘いの後、各地の神を制し、出雲建(いずもたける)を討って西方を平定した尊は、休む間もなく蝦夷とのいくさへ派遣される。伊勢斎宮でおばの倭姫命(やまとひめのみこと)の助力や后の弟橘媛(おとたちばなひめ)の命がけの献身で使命を果たすが、胆吹山(伊吹山)の神に破れ、伊勢の能褒野(のぼの)で力尽きる。
しかし葬られた尊の魂は白鳥となって天翔け、故郷・大和の琴弾原、河内で留まり、再び天高く飛び去った。柩には衣しか残っていなかったという。
尊を王権支配の全国的拡大における最大の功労者として描く『日本書紀』に対し、『古事記』は勇猛さゆえに天皇から疎外され、漂泊する哀しき姿を浮き彫りにして胸を打つ。
尊の軌跡をたどるなら『古事記』を片手に出かけたい。
開化天皇の皇子で、母は物部系の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。和名は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにゑのすめらみこと)といい、第10代の天皇とされる。
『日本書紀』では、天照大神を皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して宮中から笠縫邑へ遷したり、三輪の大物主神の祟りを神の御子・大田田根子(おおたたねこ)に祀らせて鎮めるなど、伊勢神宮の創始をはじめとした祭祀関係の起源がこの御代に多く語られている。
神々を手厚く祀る一方で、四道将軍を四方へ派遣して鎮撫。税を課し、農業を振興させ、朝鮮半島との通交を開始するなど内政安定にも力を入れた。数々の業績から「国土の最初の統一者」の意味である御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられたという。
“ハツクニシラス”は初代・神武天皇の名でもある。この符号などから「崇神天皇こそが王権草創期の実在した天皇ではないか」とする説を呼び込んだ。
知名度に比べ、これほど実像が知られていない人物も少ないだろう。持統朝から文武朝にかけて主要作品が集中すること以外、生没年・経歴ともに不詳。正史に名は一切見えず、手がかりは残された歌のみだ。
しかし、伝承は多い。人麻呂を歌聖と位置づけたのは『古今集』。天皇と歌で心を通わす姿を描き上げた。院政期以降は歌会などで人麻呂の絵図が飾られるようになる。あやかれば秀歌がなせると信じられ、人麻呂は“和歌神”にまでのぼりつめた。
『万葉集』には人麻呂作と明記されたもの、現存しない『人麻呂歌集』の歌とされるもの、合わせて約450首を収録。長歌と短歌を組み合わせ、数首の短歌を連作するといった独自の構想や、対句・枕詞の修辞多様性、新しい枕詞の創出など、後代に与えた影響は大きい。
官人として石見へ赴任していたとみられ、下級役人とする向きもある。たとえ実像が謎に包まれていても、『万葉集』最高の歌人という評価だけは変わらないだろう。