はじめての万葉集


はじめての万葉集
夏野(なつの)ゆく 牡鹿(をしか)の角(つの)の 束(つか)の間(ま)も
妹(いも)が心を 忘れて思へや
柿本人麻呂
巻四 五〇二番歌
【訳】 夏の野を行く牡鹿の角のように、ほんのわずかの間も妻の心を忘れることがあろうか。
夏野ゆく牡鹿の角
 空の青と木々の緑にまぶしさを感じる季節になると、なんとなく気持ちが弾むような気がします。そんな季節には、人の心だけでなく野原の草花も勢いを増し、のびのびと生い茂るかのようです。動物たちの動きも活発になります。
 この歌ではまず、夏の草が茂る野原を歩む牡鹿が描かれています。牡鹿に生える角は、毎年生え替わることで知られており、夏の角は生え替わったばかりでとても短いのが特徴です。旧暦でいう「夏」は、現代の季節感からいうと春から初夏にかけての時期に相当します。旧暦五月五日(現在の暦で六月頃)には、鹿の若角を取る薬狩(くすりがり)も行われました。
 その夏の牡鹿の角をたとえに使って、そのように短い時間も愛しい女性の気持ちを忘れることはない、と相手への恋心を表現しています。
 「束の間」は、ごく短い時間という意味です。「束」とは古代の長さの単位のひとつで、一束は手でつかんだほどの長さをいい、片手の人さし指から小指までの指四本分の幅を指します。
 鹿を詠むのは秋の歌が多く、夏の歌は珍しい例です。作者である柿本人麻呂は、後世に歌の聖(ひじり)とも称された有名な歌人です。この歌の主旨は、相手の気持ちを片時も忘れることはない、ということだけなのですが、生え替わったばかりの鹿の角の短さをたとえとして詠み、それを導き出す夏の野を行く鹿という描写を加えたことで、現代の私たちの想像力をもかき立ててくれます。
(本文 万葉文化館 井上さやか)
写真
万葉ちゃんのつぶやき
なつの鹿寄せ
 ナチュラルホルンの音色で鹿を呼び寄せる奈良の風物詩「鹿寄せ」は、明治25(1892)年、鹿園竣工奉告祭でラッパを使って行われたのが始まりです。奈良公園にデビューしたばかりの子鹿たちにも出会えます。
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