この歌の作者である大津皇子は、天武天皇と大田皇女(おおたのひめみこ)(持統(じとう)天皇の姉)の子で、皇太子である草壁皇子(くさかべのみこ)に次ぐ皇位継承の有力候補者でした。しかし、大津は草壁に対する謀反の罪のために死を命じられたと、『日本書紀』には記されます。大津の死に際しては、妻である山辺皇女(やまのべのひめみこ)が髪を振り乱し素足で駆け寄って殉死(じゅんし)したという記述もあり、同書の中でも涙をさそう場面です。 この歌には、死に臨んだ大津が、磐余池の堤で涙を流して作った歌だという題詞がついています。磐余池は、大津の宮の付近にあったとされる池です。「もも(百)づたふ」は、百につながっていく数字「五十(い)」の「い」を導き出す言葉で、磐余池にかかります。「百に伝う」言葉を付すことで、磐余池の永遠性を暗に示しているかのようだ、とも評されています。 そうした池に毎年やってきて鳴く鴨は、日常的な存在でありながら、死を命じられた大津にとっては生命の営みを感じさせるものとしても映ったことでしょう。命ある日常から切り離されることへの、深い詠嘆の込もった一首です。 ただし、この歌の「雲隠りなむ」という言葉は、貴人に対する表現であるため、大津本人の作ではなく、その死を悼んだ他者による作であるとも言われています。『懐風藻(かいふうそう)』にも、大津が死に臨んで作った詩が残されていますが、これも後人の仮託という説があります。 しかし、『日本書紀』は大津を謀反人として記録しながらも、優秀な人物であったと評価し、漢詩等の文学の才も認めています。磐余池での歌が他者の作であったとしても、大津なら死に直面しても素晴らしい歌や詩を残しただろうという認識が、当時の人々にはあったということなのでしょう。 (本文 万葉文化館 吉原 啓)
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