この歌は持統天皇六年の伊勢行幸の際に、行幸に従駕した石上麻呂が詠んだ歌です。 「いざ見の山」とは、東吉野村と三重県松阪市との境にある高見山かといわれます。「いざ」は相手を誘う語で、「見る」には男女が会うという意味もありました。高見山の標高は約一二五〇メートルあり、冬には樹氷が見られることで知られます。東西方向から見ると尖った山頂が見えることから、伊勢側から見て大和国が遮られているように感じたものと考えられます。 『万葉集』には、この行幸の際のエピソードが注に詳しく記されています。中納言であった三輪朝臣高市麻呂(みわのあそんたけちまろ)が冠位を脱いで天皇に捧げ、農繁期の行幸は民を苦しめるとして諫(いさ)めたが、天皇はこれを聞き入れず伊勢へ行幸した、というものです。 『日本書紀』によれば、確かに三月三日に高市麻呂が持統天皇の伊勢行幸を諫めたこと、それを押し切って六日に伊勢に行幸したことなどが記されています。冠を脱いで天皇に捧げるとは職を辞する覚悟のほどを示しており、高市麻呂はこの後しばらく官職を解かれたといわれています。 ただ、持統天皇は行幸を強行しただけでなく、行幸の通過地となった地域や随行した人々の税を免除し、大赦を行うなどもしたと『日本書紀』にはあります。伊勢は壬申(じんしん)の乱において大海人皇子(おおあまのみこ)(後の天武天皇)を勝利に導いた神の坐す地であり、高市麻呂はその乱における功臣でした。だからこそ諫言(かんげん)を呈することができたのでしょうが、一方で天武天皇の遺志を継いだ持統天皇には、その諫言を退けても行幸しなければならない事情があったのかもしれません。 石上麻呂は大友皇子側の忠臣として知られ、天武天皇や持統天皇にも重用されました。高市麻呂の話は、石上麻呂には直接関わらないのに詳細な注を付けるほど有名だったようで、『懐風藻(かいふうそう)』や『日本霊異記(にほんりょういき)』にもみえます。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
スマホアプリ「マチイロ」でも電子書籍版がご覧になれます。 詳しくはこちら
電子書籍ポータルサイト「奈良ebooks」でもご覧になれます。 詳しくはこちら