この歌は天智十(六七一)年に天智天皇が亡くなった際、皇后であった倭姫王(やまとひめのおおきみ)が詠んだ挽歌です。同じ頃に詠まれた後宮のほかの女性たちによるとみられる歌も含め、『万葉集』には天智挽歌群が掲載されています。 『日本書紀』巻第二十七によれば、天智十年の九月に天智天皇が病気になり、十月十七日に重症化、十二月三日に近江宮で崩じた、とあります。直後の十二月十一日には、新宮で殯(もがり)をしたこと、古代において社会的事件の前兆と考えられていた童謡(わざうた)が三首みられたことも記されています。この年には、『漢書』で王室交代の前兆とされた鼎(かなえ)が鳴るなどの現象もあったということで、いずれも、翌年に起こる「壬申の乱」を予感させる内容であるといえます。 続く『日本書紀』巻第二十八でも、巻二十七の最後部を繰り返すように天智天皇が病に倒れた後の動向を記し、大海人皇子(おおあまのみこ)(後の天武天皇)は皇位に就く意思がなく出家したなど、壬申の乱に至る経緯や乱の具体的な様子が事細かに記されています。 この歌を詠んだ倭姫王の父・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は、舒明(じょめい)天皇の第一皇子でしたが、母親が蘇我馬子の娘・法堤郎女(ほほてのいらつめ)であったことから、六四五年の乙巳(いっし)の変で蘇我氏の本宗家が滅びると同時に、有力な後ろ盾を失ったとみられます。皇位に就くこともなく、出家して隠棲しようとしたものの、中大兄皇子(後の天智天皇)に謀反の罪で誅されたといいます。倭姫王の母親は不明であり、倭姫王と天智天皇との間に子どもが生まれたという記録もありません。 父親のかたきにあたる男性の妻として生き、他人が忘れても自分だけは夫の面影を慕うと歌を詠む、古代の女性の複雑な人間関係と心情とを思わずにはいられません。 (本文 万葉文化館 井上 さやか)
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