古代、飛鳥から吉野に入る玄関口として栄えた大淀町。飛鳥からもたらされた仏教信仰は、吉野寺(今の世尊寺の前身)など古代寺院の建立につながり、吉野における仏教文化の始まりとなった。 今回は、梨の木の彫りかけの仏像が、お声を発して願いを知らせたという不思議なお話。
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聖武天皇の奈良時代、上総国(かずさのくに)(今の千葉県)の高僧、広達(こうたつ)が吉野の金峯山(きんぷせん)に入り修行をしていた。 ある日、里に出て秋河(秋野川)を渡ろうとすると、橋の下から声が聞こえた。「ああ、痛い、そんなにひどく踏まないでくれ」。 広達は不思議に思い、辺りを見回したが誰もいない。行き過ぎがたく、橋の下に降りて見上げると、何と、仏像を彫りかけたままの梨の木が川の橋として架けられているではないか。 驚いた広達は、早速その梨の木を清浄な場所に移し、合掌して誓った。 「ご縁があってお会いしました。私が必ずお造り申し上げます」。 やがて広達は阿弥陀仏、弥勒仏、観音菩薩のお像を彫り上げ、越部(こしべ)村(大淀町越部)の「岡堂(おかどう)」に安置した。
このお話は、平安時代の『日本霊異記(にほんりょういき)』『今昔物語集』などにも見える。 越部川沿いの古道(壺阪道)を北へ辿(たど)った。岬状(みさきじょう)の台地の先にある「越部古墳」。直径二十四メートルの円墳で、七世紀頃の地元有力者の墓とされる。 古墳近くに寺院があったようだ。石室から「堂」と書かれた平安時代の墨書土器(ぼくしょどき)が発見された。「堂ノ坂(どのさか)」「堂ノ上(どのうえ)」の地名も残る。広達が彫った仏像を安置した「岡堂」はこの近くにあったのだろうか。 その北が、今は埋め戻されて保育所が建つが、「越部ハサマ遺跡」。縄文晩期の墓地と弥生中期(約三〇〇〇年前から二〇〇〇年前)の竪穴式住居跡が発見された。 温暖なこの地に住んでいた往時の人々。アユやアマゴなど吉野川の幸、シカやイノシシの肉、木の実や野草など山の幸に恵まれて、豊かであったろう日々の生活がしのばれる。 古道をさらに進むと、鬱蒼(うっそう)とした大樹が天を覆う静寂の壺阪峠へ。峠を越えれば、壷阪寺、飛鳥へと続く。
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