奈良盆地のほぼ中央、磯城郡(しきぐん)三宅町。そこを通る「太子道(たいしみち)」(筋違道(すじかいみち))。若き聖徳太子が、自らの学問所、住まいとした斑鳩宮(いかるがのみや)から、当時、都のあった飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)へ通った道として知られる。今回は、その道筋での太子にまつわるお話。
*
聖徳太子は、いつものように愛馬に乗り、従者の調子麿(ちょうしまろ)を連れて斑鳩から飛鳥へ太子道を通っておられた。 ある冷たい風の吹く寒い日、太子は三宅の村でひと休みされた。村人たちは心配し、風除けに屏風(びょうぶ)を立ててもてなした。太子は大変喜び、村の名前を「屏風」と名付けられた。 ある夏の暑い日にも、太子はこのあたりでひと休みし、冷たい水を望まれた。困った村人は「ここでは、井戸からいい水が湧きません」と哀しい顔をして言った。 太子は早速、持っていた矢の先で地面をひと突きした。すると不思議、きれいな清水(しみず)がこんこんと湧き出した。それからは、太子はいつもここでひと休みし、その清水をお飲みになった。村人たちも大変喜び、「矢じりの井戸」と名付けて毎日の生活に皆で大切に使ったそうだ。
聖徳太子は、推古天皇の即位(五九二年)のあと、皇太子として天皇とともに政治を行った。遣隋使の派遣、冠位十二階、十七条憲法の制定、また仏教興隆に尽力した。 太子が通われた太子道。その距離約20km。今も三宅町、田原本町で往時の道を辿(たど)ることができるが、他の多くは不明に近い。 『万葉集』に、一人の若者が、「三宅の原」、「三宅道」を通り、黒髪に黄色いあざさの花を飾った美しい恋人のもとへ裸足で急ぐ歌(巻十三・三二九五、三二九六)がある。その道も太子道あたりともいわれる。 三宅町の太子道に、今も残る太子ゆかりの古跡。白山(はくさん)神社には、太子の「腰かけ石」、「黒駒に乗る太子像」、向かいの屏風杵築(きつき)神社には、「矢じりの井戸」(屏風の清水)、また、太子を村人が菓子でもてなすようすを描いた「太子接待の絵馬」も残る。 戦前までは豊かな田園風景が町全体に見られたという三宅町。今は民家や店舗、工場なども多く建つ。 とはいえ、町の西側に広がる稲田では、すでに黄金色に実った稲穂が秋風に揺れ、十月の稲刈りを待っている。
スマホアプリ「マチイロ」でも電子書籍版がご覧になれます。 詳しくはこちら
電子書籍ポータルサイト「奈良ebooks」でもご覧になれます。 詳しくはこちら