この歌は「吉野より蘿生(こけむ)せる松の柯(えだ)を折り取りて遣はしし時に、額田王の奉(たてまつ)り入れたる歌」と題された一首です。直前の歌が天武天皇八(六七九)年の吉野行幸に同行していたとされる弓削皇子(ゆげのみこ)との贈答歌であることから、この歌も、吉野にいる弓削皇子から都にいる額田王へ松の枝が贈られてきた際の歌と考えられています。 「み吉野」の「み」は吉野の神聖さを表現する言葉といえ、ほかにも「み熊野」などの例があります。また、「玉松が枝」の「玉」も、美しい、立派だ、という意味で「松が枝」を讃美する言葉です。 そんな吉野の立派な松の枝が「おことばを持って通って来る」とは、松の枝を擬人化したおもしろい言い方です。実際に松の枝が何かしゃべったわけではないでしょうが、何かを雄弁に伝えていた可能性が考えられます。 手掛かりとなるのは、弓削皇子が「蘿生せる松の柯を折り取りて遣」わしたという題の記述です。 平安時代の辞書である『和名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)には「松蘿」はサルオガセのことだと記されています。サルオガセとは松などに着生する、地衣類(ちいるい)という菌類と藻類の共生生物です。一見するとコケ植物のように見えることから、マツノコケとも呼ばれます。一方、中国最古の詩集である『詩経』(しきょう)では、「蘿」が一族が和合して繁栄する象徴として詠まれています。 この歌は、額田王が六十歳を過ぎた頃の作です。四十歳以上も年下の弓削皇子は、『詩経』を踏まえて額田王に「蘿生せる松の柯」を贈ることで、彼女の長寿と繁栄を言祝(ことほ)いだのだと指摘されています。中国文学にも通じていた二人ならではの、機転の利いたやり取りだったといえそうです。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
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