この歌は、六七一年に亡くなった天智天皇のために詠まれた挽歌九首の一つで、『万葉集』の題詞には「石川夫人の歌」とあります。これらの挽歌の作者は、天智の皇后であった倭姫王(やまとひめのおおきみ)をはじめ、額田王(ぬかたのおおきみ)や舎人吉年(とねりのきね)など、近江大津宮(おうみおおつのみや)における天智の後宮にいた女性達なので、石川夫人は天智のキサキであることがわかります。 大化改新の後に右大臣を務めた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)は、遠智娘(おちのいらつめ)と姪娘(めいのいらつめ)という二人の息女を天智のキサキとしました。遠智娘は大田皇女(おおたのひめみこ)、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)(後の持統天皇)、建皇子(たけるのみこ)の二女一男を姪娘は御名部皇女(みなべのひめみこ)、阿閇皇女(あべのひめみこ)(後の元明天皇)の二女を産みました。この二人のキサキのいずれかが石川夫人とみられますが、遠智娘は父の石川麻呂が六四九年に謀反の疑いにより自害した影響で健康を損なったらしく、六五一年に建皇子を産んだ後まもなく亡くなったようです。一方の姪娘は長命で、七〇四年に当時の文武天皇(阿閇皇女の息子)が自らの親族に褒賞を与えた際、天皇の祖母としてその一員に列しています。この歌の作者である石川夫人とは、蘇我姪娘(そがのめいのいらつめ)の可能性が高いと言えます。 蘇我姪娘が石川夫人と呼ばれたのは、父の石川麻呂が石川の地に保有していた宅を彼女が受け継いだことに由来すると考えられます。石川の地名は、橿原市石川町として今も残っています。この地にあった石川宅は、蘇我馬子(そがのうまこ)が仏像を祀った所として『日本書紀』巻二十(敏達天皇十三年是歳条)に登場し、蘇我氏が古くから所有していた邸宅であったことが知られます。蘇我氏の石川宅は、石川麻呂が自害した後に謀反の罰として国家に一旦接収され、その後あらためて姪娘の管理下に移り、「石川宮」と呼ばれたようです。 (本文 万葉文化館 竹内 亮)
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