この歌の題詞には、「但馬皇女(たじまのひめみこ)が高市皇子(たけちのみこ)の宮におられた時、ひそかに穂積皇子(ほづみのみこ)と関係を結び、その事が露見して作られた歌」とあります。ここに登場する高市皇子・穂積皇子・但馬皇女はいずれも天武天皇の子ですが母親はそれぞれ異なり、古代の慣習では異母兄妹の間での恋愛や結婚は特に問題とされませんでした。但馬皇女は、異母兄である高市皇子の宮で同居していながら、同じく異母兄の穂積皇子と密通し、そのことが世間に知られてしまって二人は自由に会うことができなくなったようです。そうした障害を乗り越えてみせるという彼女の決意が、「生まれてこのかた渡ったこともない朝の川を渡る(川は男女の逢瀬(おうせ)を隔てる象徴)」と表現されています。 当時の皇子女は、皇子宮(みこのみや)という宮宅を各自所有して居住していました。高市皇子宮は香来山之宮(かぐやまのみや)とも呼ばれ、香具山の麓(ふもと)に立地していたようです。但馬皇女はこの宮の主である高市皇子と同居していたことから、高市の妻の立場であったと言われています。一方、穂積皇子宮の場所は不明でしたが、二〇〇三年に橿原市出合町・膳夫町で行われた発掘調査において、藤原京期の道路側溝跡から「穂積親王宮」と書かれた木簡が出土しました。木簡出土地点は香具山から北へ約一キロメートルの位置にあり、この付近に穂積皇子宮が立地していた可能性があります。高市皇子の子である長屋王が平城京で居住していた邸宅跡では、父の高市皇子宮を指すとみられる「北宮」と書かれた木簡が見つかっており、これが「香具山の北の宮」の意であるとすると、高市・穂積の両皇子宮はかなり近接していたのかもしれません。 なお、藤原宮跡から出土した木簡に「多治麻(たじま)内親王宮」と書かれたものがあり、高市皇子が持統天皇十(六九六)年に亡くなった後、但馬皇女は独自に皇子宮を構えたことが判明しています。 (本文 万葉文化館 竹内 亮)
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