奈良県の西北、北葛城郡広陵町。今は「かぐや姫伝説」の候補地として知られるが、今回は、かつてこの地を治めていた代官さまの本当~にあったお話。
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昔、「南郷どん」という偉い人がいた。慶長五(一六〇〇)年、南郷村に代官として赴任してこられた。
南郷村では、村人たちは水不足に困っていた。そこで南郷どんは、村から西南に二〇町(約二㎞)離れた大谷村(現在の大和高田市)に六町歩(約六ha)の大池を掘り、同時に水路も造られた。
この時、南郷村が代わりとして大谷村へ渡した耕作地の分は年貢を免除された。以来、南郷村では順調に米を作ることができたそうだ。
南郷村の人々は南郷どんに感謝し、村の中心部に供養塔を建て、今も命日の一月二十五日とお盆に報恩のお祭りを行っている。
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さてさて、お話に登場する南郷どん(殿)こと、本名喜多見勝忠(きたみかつただ)は、安土桃山時代から江戸時代前期に実在し、徳川家康の家臣として関ヶ原の戦いなどで功をたてた。
彼が南郷村に代官として赴任したのは三十代の頃。代官の仕事は年貢の徴収、川、道路、橋の整備、治安の維持など。南郷村のために大池を造ったのはこの頃である。
勝忠はその後、元和四(一六一八)年、堺奉行に任じられ、摂津、河内、和泉国の奉行も兼任。今なら大阪府知事、といったところか。彼が在任中の十年間は、訴訟も、悪事を働く者もなく、人々は善政を謳歌したといわれる。寛永四(一六二七)年、に病没。六十歳。
墓は、堺市の南宗寺にある。南宗寺といえば、千利休が禅の精神を学び、侘(わ)び茶を確立したゆかりの寺。勝忠もまた茶道を愛し、徳川二代将軍秀忠が南宗寺に赴いた際には自邸に招き、自ら茶を献じてもてなしたといわれる。
武人にして茶人、仏教を信じ、善政を旨とした立派な人物であったそうだ。南郷どんと村人たちが造った「南郷池」。今は周辺の河川の洪水対策として役立っている。