この歌の題詞には、「大津皇子(おおつのみこ)が亡くなった後、大来皇女が伊勢の斎宮(さいくう)から上京した時に作った歌」とあります。大来皇女は、天武天皇とその妃の大田皇女(おおたのひめみこ)(皇后鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)の同母姉)との間に生まれました。壬申の乱に勝利した天武天皇が飛鳥宮で即位してから約一カ月半後の天武天皇二(六七三)年四月、大来皇女は伊勢神宮への発遣(はっけん)に備えた潔斎(けっさい)のため泊瀬(はつせ)(桜井市初瀬付近)の斎宮に入り、翌年十月に伊勢へと向かいました。伊勢斎王(いせのさいおう)となった大来皇女は伊勢の斎宮で生活し、天照太神(あまてらすおおみかみ)の祭祀(さいし)に奉仕する日々を送りましたが、朱鳥元(六八六)年九月に父の天武天皇が亡くなった翌十月、彼女の同母弟である大津皇子の謀反が発覚して処刑されるという事件が起こります。大来皇女は斎王の任を解かれ、同年十一月に飛鳥の都へ帰りました。現代の暦でいうと十二月上旬に当たる頃です。母の大田皇女は早くに亡くなっており、このたび父に続いて弟も失った孤独感と悲哀が歌に込められています。 飛鳥へ帰京した大来皇女には、当時の慣習に従って皇子宮が与えられました。平成三(一九九一)年に行われた発掘調査により、現在万葉文化館が建っている場所には飛鳥時代後期の大規模な工房跡が存在したことが判明し、飛鳥池遺跡と呼ばれています。この工房跡からは天武天皇の後期から持統天皇の初期にかけての年代を示す木簡が多数出土しており、その一点に「大伯皇子宮物(おおくのみこのみやのもの)」と書かれた木簡があります(「大伯」は「大来」の別表記)。この工房では天皇の宮殿や皇子宮などの需要に応じて鉄釘などの建築資材を生産しており、この木簡は飛鳥へ戻った大来皇女の宮を新営するための資材発注書とみられます。大宝元(七〇一)年十二月に未婚のまま四十一歳で亡くなるまで、彼女はこの皇子宮で孤独な余生を過ごしたのでしょう。 (本文 万葉文化館 竹内 亮)
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