いきなり女性の名前から始まるこの歌は、題詞によると日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)が石川女郎(いしかわのいらつめ)に贈ったもので、女郎の名が大名児だったと説明されています。日並皇子尊とは草壁皇子のことです。「日並」は賛美を込めた呼び方で、『万葉集』ではこちらが使われます。天武天皇には高市皇子(たけちのみこ)や大津皇子(おおつのみこ)ら十人の皇子がいましたが、皇后(後の持統天皇)との間の子である草壁皇子は次の天皇候補として尊ばれていました。 さて、この歌の直前、一〇九番歌の題詞に「大津皇子の竊(ひそ)かに石川女郎に婚(あ)ひし時に、津守連通(つもりのむらじとおる)のその事を占(うら)へ露(あら)はすに…」と書かれています。「竊かに」という語は巻二の中に四例あり、いずれも行ってはいけない女性のもとに行く場合に用いられます。なぜ、大津皇子は石川女郎に通ってはいけなかったのか。それは、隣り合う一一〇番歌と併せると、石川女郎は日並皇子の恋人だったから、と読み取れます。その状況をふまえて大津皇子の歌「大船(おほふね)の津守(つもり)が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りてわが二人宿(ね)し」(大船の泊(とま)る津守が占いに現わすだろうことを、まさしく知りながら私は二人で寝たことだ/一〇九番歌)を読むと、大胆不敵な表情まで想像できそうです。 その大津皇子の歌に続いて、日並皇子が大名児(石川女郎)を思う恋の歌が載せられています。「彼方野辺に刈る草」は「束(つか)」を導く序(前置き)です。今でも「つかの間」という表現を使うことがありますが、『万葉集』で既に使われています。「つか」とは一つかみ、指四本分ほどの短さを表します。そんな短い間も忘れるわけがない、という表現に石川女郎への執着が伝わってきます。 天武天皇崩御の直後、人望のあった大津皇子は謀反の罪で六八六年十月に刑死します。皇太子だった日並皇子も六八九年四月に亡くなります。けれど皇子の情熱は、彼の作として唯一残るこの歌を通して、今なお実感することができます。 (本文 万葉文化館 阪口由佳)
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