『万葉集』のこの歌の題詞によると、和銅三(七一〇)年二月、藤原宮から寧楽(なら)宮(平城宮)へ遷った時、御輿(みこし)を長屋の原に停め、古郷(ふるさと)の方を振り返り遠望しながら作ったのがこの歌で、作者については「太上天皇(だいじょうてんのう)の御製(ぎょせい)」と記す書物がある、とあります。和銅三年は平城遷都の年で、当時の天皇は元明天皇です。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、元明天皇は同年正月に大極殿(だいごくでん)で年頭の儀式に臨み、三月に平城宮へ遷都しました。最近の発掘調査により、同年には平城宮の大極殿が未完成であったことが分かっていますので、元明天皇は藤原宮の大極殿で正月の儀式を行い、題詞にあるように二月に藤原から平城へ行幸し、三月に平城宮で遷都を宣言したということになります。なお、題詞には太上天皇の御製とありますが、和銅三年当時には太上天皇は存在しませんので、元明天皇が和銅八(七一五)年に退位して太上天皇となった後に題詞が付けられたことが分かります。 藤原から平城へ向かう元明天皇の御輿が停まった「長屋の原」は、当時の行政地名で言うと大倭国山邊郡長屋里(やまとのくにやまのべぐんながやのさと)、現在の天理市西井戸堂(いどうどう)町・東井戸堂町付近にあたります。同地には古代の幹線道路である中ツ道が南北に走っており、元明天皇の行幸は中ツ道を利用したとみられます。ここは藤原と平城のちょうど中間に当たり、中ツ道の休憩地点であったと考えられます。この付近から南の方角を望むと、飛鳥・藤原の一帯は遠くに見える山並みの麓辺りとしか分からず、はっきりとは見えません。この地で御輿を停めた元明天皇は、夫の草壁皇子、子の文武天皇が共に眠る飛鳥の里がまもなく見えなくなってしまうであろう当地でこの歌を詠み、古京の飛鳥・藤原に別れを告げ、新京の平城で始まる新たな時代へと気持ちを切り替えようとしたのでしょう。 (本文 万葉文化館 竹内 亮)
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