この歌は、天平元(七二九)年十一月八日に、藤原不比等の子であり藤原北家の祖である藤原房前が詠んだ歌です。 これに先立つ十月七日、大宰府の長官であった大伴旅人(おおとものたびと)から平城京の房前のもとへ、立派な倭琴(やまとごと)が贈られました。そこには手紙が添えられており、この琴は対馬の結石山(ゆうしやま)に生えていたアオギリ製で、美しい少女の姿になって私の夢に登場し、立派な方の愛用の琴になりたいと懇願されました、それに感動してこの手紙をしたため、琴とともに献上します、とありました。 夢の中での少女とのやり取りを記した旅人の手紙は『文選(もんぜん)』や『遊仙窟(ゆうせんくつ)』の影響を受けた内容であり、漢文体による物語部分と一字一音表記による和歌(八一〇、八一一番歌)とが混ざり合った形式は、『伊勢物語』など後世の歌物語をもほうふつさせます。その手紙に対する房前の返信文中に記されたのがこの歌でした。『万葉集』には、二人の風雅なやり取りの全文が掲載されています。 「言問はぬ木」とは旅人の歌(八一一番歌)の表現を踏襲したもので、言葉を発する人間に対して言葉を発しないのが草木だという発想に基づきます。言葉を発しないはずの木が、匠の技で立派な琴として生まれ変わり、さらに夢の中で少女の姿になって貴人の愛用品になりたいと伝えた、という妙味を一層ひきたたせています。 『万葉集』に載る房前の歌はこの一首だけです。彼は天平九(七三七)年四月に没し、政権の中枢を占めていた兄弟たちも相次いで病没しました。『続日本紀(しょくにほんぎ)』にはこの年の春から秋にかけて疫病が大流行したことが記録されており、それが発端となって社会が大きく変革したと考えられています。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
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