この歌は、藤原麻呂が大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)に贈った歌三首のうちの一首目に当たります。麻呂は藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子の一人で、養老元(七一七)年には美濃国(みののくに)(現在の岐阜県南部)の介(すけ)(次官)という地方官でしたが、まもなく都へ戻りました。当時の都である平城京は、朱雀大路(すざくおおじ)を境として東を左京職(さきょうしき)、西を右京職(うきょうしき)という役所が管轄していました。麻呂は帰京した後に左右両京職の長官を兼任し、「京職大夫(きょうしきのだいぶ)」と呼ばれました。 『万葉集』に収められたこの歌から始まる七首の歌は、藤原麻呂と大伴坂上郎女との間の相聞歌(そうもんか)です。その左注によると、坂上郎女は大伴安麻呂(やすまろ)(大伴旅人(たびと)の父)の娘で、穂積皇子(ほづみのみこ)(天武天皇の子)の寵愛(ちょうあい)を得ましたが、皇子が和銅八(七一五)年に亡くなった後に麻呂と交際したとあります。養老六(七二二)年頃に坂上郎女は異母兄の大伴宿奈麻呂(すくなまろ)に嫁いだとみられますので、麻呂との間で交わされた一連の歌は、麻呂が養老二(七一八)年頃に美濃から帰京した後、養老五(七二一)年に京職大夫へ就任する頃までに詠まれたものと考えられます。二人が交際できた期間はごく短く、またこの歌や坂上郎女からの返歌がいずれも互いにあまり会っていないことを前提とした内容であるため、二人の関係はまもなく解消へ向かったと推察されます。 なお、麻呂の邸宅は左京二条二坊五坪に所在したことが、平城京跡から出土した木簡の内容から判明しています。ここは長屋王邸から二条大路を挟んで北隣の位置に当たります。一方の坂上郎女は坂上里(さかのうえのさと)に居住したと左注にあり、父の安麻呂が居を構えていた佐保(さほ)の近く、平城京北郊の平城山(ならやま)南麓あたりに住んでいたとみられます。双方の距離は二~三キロメートル程度ですが、男女の仲はあまり長続きしなかったようです。 (本文 万葉文化館 竹内 亮)
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