この歌は天武天皇の子である高市皇子(たけちのみこ)と、天智天皇の子である御名部皇女(みなべのひめみこ)との間に生まれた長屋王が詠んだ歌です。 長屋王は、藤原不比等(ふじわらのふひと)が没した翌年の養老五(七二一)年に右大臣に、聖武天皇が即位した神亀元(七二四)年に左大臣となり、皇親として政治を担いました。平城京の一等地に位置する邸宅跡(奈良市二条大路南一丁目)からは「長屋親王宮」などと記された木簡も出土しており、往時の権力の大きさがしのばれます。 しかし、神亀六(七二九)年二月、左道(さどう)を学び国家を傾けようとしているとの密告により謀反(むほん)の罪に問われ自害したと『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されます。同年八月には天平と改元され、不比等の娘である安宿媛(あすかべひめ)が皇族出身ではないのにも関わらず皇后となり、武智麻呂、房前、宇合、麻呂ら藤原氏の四兄弟が台頭したことからみて、長屋王事件は藤原一族の謀略であったことがうかがえます。 この歌の作歌年月は不明ですが、次の歌が「養老八年」(神亀元〈七二四〉年)作と記された山上憶良(やまのうえのおくら)の歌であることから、それ以前に詠まれた可能性が高く、政権の中枢にいた頃の歌とみられます。 「味酒」は「三輪」にかかる枕詞です。『日本書紀』崇神天皇条に、活日(いくひ)という人物が大神(おおみわ)の「掌酒(さかびと)」となり天皇に「神酒(みき)」を献上した記事や「神酒(みわ)」(巻十三・三二二九番歌)の表記例などから、酒にゆかり深い地である「三輪」の枕詞となったといわれます。 長屋王は『万葉集』に歌五首、『懐風藻(かいふうそう)』に五言詩三首を残しており、自宅で新羅の賓客をもてなす文雅の宴なども開いていました。政治だけでなく文学にも通じた人物であり、生まれ故郷である飛鳥に近い三輪山の黄葉を愛でたひとときがあったようです。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
スマホアプリ「マチイロ」でも電子書籍版がご覧になれます。 詳しくはこちら
電子書籍ポータルサイト「奈良ebooks」でもご覧になれます。 詳しくはこちら