昔、昔、柳生の殿様で剣豪の柳生宗矩が、阪原の里を通られた。 と、道端の井戸で娘が洗濯をしていた。宗矩は馬を止め、その娘にいきなり問いかけた。 「これこれ娘、洗濯をしているようだが、水が揺れてできる波の数はいくつか」 「はい、波(七(な)・三(み))は、二十一波でございます」 とっさのことながら、娘はすかさず答え、殿様に問い返した。 「殿様は柳生からここまで馬で来られましたが、馬の足跡はいくつございましたか」 殿様は、ググッと答えに詰まってしまった。さすがの剣の達人も村娘に一本取られた格好。娘の名はおふじ。宗矩はおふじの器量と才知を気に入り、側室に迎えた。 そしてその子どもは、のちに柳生一族の菩提寺である芳徳寺(ほうとくじ)の初代住職列堂(れつどう)となった
さて、その芳徳寺。一万二千石の柳生藩初代藩主となった宗矩が、父、石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)の菩提(ぼだい)を弔うため、親交のあった禅僧の沢庵和尚(たくあんおしょう)を開山に迎え創建した。境内に柳生家代々の墓八十余基がある。 有名な柳生新陰(しんかげ)流は、宗厳が創始、宗矩が確立した。戦わずして勝つという「無刀取(むとうど)り」は、剣禅一致(けんぜんいっち)を兵法の極意とし、徳川時代約二六〇年の泰平(たいへい)を支えた。
さてさて、阪原にある「おふじの井戸」。周りを緑濃い山並みに囲まれた小盆地で、井戸の前は、稲刈りを終えた田んぼがどこまでも広がっている。昔懐かしい田園風景。 澄んだ秋空に、枯れ草を焼くのか、遠くに白く細い煙が見える。 近くを通る柳生街道を東に辿り、かえりばさ峠を越えれば、もう柳生の里である。
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