題詞によると、これは光明皇后が聖武天皇に贈った歌で、『万葉集』巻八に冬の相聞歌(そうもんか)(男女が親愛の情をうたった歌)として収められています。巻八では原則として部立(ぶだて)(歌のジャンル)ごとに年代順で歌が並べられており、この歌の前には天平四(七三二)年頃、後には天平十三(七四一)~十五(七四三)年頃の歌が配列されていますので、天平年間中頃の歌であることがわかります。 光明皇后は聖武天皇と同い年の大宝元(七〇一)年生まれで、聖武天皇が皇太子であった頃にキサキとなり、天平元(七二九)年に皇后となりました。夫婦の仲は終始円満であったといわれますが、この歌での光明皇后は、降る雪を夫の聖武天皇と二人で見られないことを寂しく思っている様子です。ある年の冬の降雪期に、夫婦が共に過ごせない何らかの事情があったことがうかがえます。 『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、九州で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱が勃発した天平十二(七四〇)年、聖武天皇は平城京から伊勢・美濃・近江へと行幸し、同年十二月には平城京へ戻らずに山背国相楽郡恭仁郷(やましろのくにさがらかのこおりくにのさと)(現在の京都府木津川市加茂町)にとどまり、この地に宮を置いて京の造営を始めました。これが恭仁京です。『続日本紀』によると、十二月の時点では元正(げんしょう)太上天皇と光明皇后はまだ恭仁宮に入っておらず、「在後而至(のちにいたる)」とありますので、同年末には聖武・光明の夫婦は恭仁京と平城京で別々に過ごしていたと考えられます。よって、この歌は天平十二年十二月、聖武天皇が恭仁京の造営を宣言した前後に詠まれた可能性が高いといえます。元正太上天皇は翌天平十三(七四一)年七月に恭仁の新宮へ移っており、光明皇后もその頃までは寂しく夫との別居生活を送らざるを得なかったと思われます。 (本文 万葉文化館 竹内 亮)
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