三郷町
聖徳太子と龍田大社
聖徳太子と龍田大社との関係として、鎌倉時代前半に記された『聖徳太子伝私記』では、聖徳太子が斑鳩寺を建立する際に龍田大明神から信託を受けて斑鳩の地に寺を築き、その後龍田の神を鎮守として祀(まつ)るために分祀した神社が斑鳩町龍田の龍田神社となっています。近世においても毎年9月13日に渡御(とぎょ)祭として龍田大社から龍田神社にお渡り行事が行われており、この結びつきが中世以降は一般に浸透していたことが分かります。なお、この渡御祭は現在の秋季大祭にあたり、毎年10月の第3土曜日・日曜日に行われているほか、お渡り行事は5年に1回龍田大社から三郷町役場までの区間で行われています。
古代においての聖徳太子と龍田大社との関係性について、興味深い説があります。現在三郷町と大阪府柏原市で取り組んでいる、文化庁認定の日本遺産「もう、すべらせない!!~龍田古道の心臓部「亀の瀬」を越えてゆけ~」のストーリーでは、『日本書紀』に記されている推古21(613)年に奈良と河内を結んだ大道とは龍田道のことであり、整備を行ったのが聖徳太子との説を挙げています(通説では竹内街道)。大陸から仏教とともに最新の制度や建築・土木技術を取り入れ、また龍田道や大和川の水運をはじめとした交通や物資運搬システムを整備し、その後の政治のモデルケースを提示した、優秀な政治家としての面も注目されています。
『延喜式祝詞(えんぎしきのりと)』で、「夕日の日隠る処」に祀られたとされる龍田大社
龍田大社(三郷町立野)
『延喜式祝詞』では、第10代崇神天皇の御代に創祀となっており、正史では『日本書紀』に天武4(675)年に風神を龍田の立野に、大忌神(おおいみのかみ)(水神)を廣瀬の河曲(かわく)に祭ると記されているのが所見となっています。大和と河内の国境にある龍田山と強く結びついた社で、現在も山頂の御座峯(ござがみね)にて祭祀が行われています。『万葉集』の(巻九・一七五一番歌)に記されている「風祭を行う名に負へる社」は龍田大社のことであり、大和と河内の国境を越える際の信仰の対象となっていたことが分かります。
渡御祭の様子
問
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三郷町ものづくり振興課
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電話
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0745-43-7343
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FAX
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0745-73-6334
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聖徳太子没後1400年フィナーレイベントを開催します!
2021年に聖徳太子没後1400年を迎えるにあたり、奈良県ではさまざまな事業を展開してきました。
太子没後1400年関連事業の締めくくりとしてフィナーレイベントを開催し、2022年の「壬申の乱1350年」へつなげます。要事前申込。詳しくは下記HPへ。