この歌には「橘宿禰(すくね)奈良麻呂の、詔(みことのり)に応(こた)へたる歌一首」という題詞があります。橘諸兄(たちばなのもろえ)の子・奈良麻呂が、聖武天皇(あるいは元正上皇)のお言葉に応じて詠んだ歌です。この歌の意味を考えるには、一つ前の歌から見ておく必要があります。 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉(とこは)の樹 (橘は実までも花までも輝き、その葉まで枝に霜が降りてもますます常緑である樹よ。/一〇〇九番歌) ご存じの方もおられると思います。私自身、リズムがよくて好きな歌の一つです。ものすごく橘をほめたたえていますね。題詞に「冬十一月に、左大弁葛城王等(さだいべんかづらきのおほきみたち)に姓橘氏を賜ひし時の御製歌一首」とある通り、天平八(七三六)年十一月に葛城王(橘諸兄)が橘の姓を賜った時の歌です。左注には元正上皇・聖武天皇・光明皇后が宴席でそれぞれ「橘を賀(ほ)く歌」を作った、とあり、一〇〇九番歌の作者は一説に元正上皇かといわれています。橘諸兄は敏達(びだつ)天皇の子孫ですが、母方の橘姓を願い出て臣籍に降りました。その賜姓を祝うため、このように橘が永遠であることが歌われています。 記紀にも、垂仁(すいにん)天皇の時代にタヂマモリが常世国から橘を持ち帰ったという伝えがあります。橘は「時じくの香菓(かくのみ)」とも呼ばれ、時を定めず(いつも)よい香のする輝かしい果実だとされていました。 さて、一〇〇九番歌では「霜」が、一〇一〇番歌では「雪」が詠まれます。これは、和銅元(七〇八)年、諸兄の母県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)が橘姓を称した際の元明天皇の勅に「(橘の)柯(えだ)は霜雪を凌いで繁茂(しげ)る」とあるのをふまえたものです。「地に落ちない」(一〇一〇番歌)のは橘のことで、苦難があっても橘氏の力が衰えないことを自ら表明しています。この時奈良麻呂は十五、六歳。この堂々たる歌いぶり、実際は諸兄が作った歌ではないかという説があります。 この翌年、疫病(天然痘)の流行により藤原四子が次々に亡くなり、諸兄が政権を握ります。橘の名にふさわしく輝き、正一位にまで昇りました。 (本文 万葉文化館 阪口由佳)
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