この歌は、天平勝宝四(七五二)年十一月二十五日に平城宮で催された新嘗会(にいなめえ)(天皇が新米を神に供える儀式)後の宴席において、孝謙天皇の詔(みことのり)に応(こた)えて詠まれた歌六首のうちの五首目に当たります。祭事に奉仕した四人の貴族による祝賀の歌四首に続いて、席をあらためて梅の花をあしらった庭園へと一同を誘おうという意が歌われています。 作者の藤原永手は藤原北家の祖である藤原房前(ふじわらのふささき)の息子で、奈良時代後期の政治家として知られる貴族です。後には正一位左大臣という高位に上り詰めますが、この頃は大和国守(現在の奈良県域の行政長官、当時の正式表記は「大倭守」)という官職を帯びていました。国家的な祭礼に伴う宴の場なので、永手が一同を誘った庭園は「吾が苑」とはいっても私邸の庭ではあり得ず、大和国の長官として管轄する公的な苑地と推定されます。その候補として考えられるのが、松林苑です。 松林苑は平城宮の北に隣接する広大な苑地で、周囲に築地塀をめぐらせた南北一キロメートル以上、東西五〇〇メートル以上の区画内に離宮、庭園、倉庫などがあり、奈良時代には天皇の臨席する宴がしばしば催されました。苑内の古墳(佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群、四~五世紀築造)の墳丘や周濠を活かしつつその一部を利用して奈良時代の園林施設が作られていることが、橿原考古学研究所による発掘調査で明らかになっています。実際に松が生えていたかは不明ですが、樹木が生い茂る山丘を含み込んだ苑地であり、人工的な宮殿施設である平城宮とは対照的な景観を呈していました。平城宮内での堅苦しい祝賀の宴の後、宴席の一同は松林苑へ向かい、木々に囲まれた庭園で一息ついたのではないかと想像されます。 (本文 万葉文化館 竹内 亮)
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