特集

県民だより奈良
2022年7月号

特集
壬申の乱
1350年
〜壬申の乱からはじまる新しい国づくり〜
 令和4年は西暦672年に起きた壬申の乱から1350年にあたります。天武天皇・持統天皇が「飛鳥・藤原」で国家の礎を築く出発点となった出来事です。
 今回の特集では、古代日本形成のターニングポイントとなった壬申の乱の軌跡と、県内のゆかり地を紹介します。
対立
壬申の乱とは?
 次期天皇と目された大海人皇子は、大友皇子の存在によって身の危険を感じ、妻の鸕野讃良皇女と共に、当時の都であった近江大津宮を離れ吉野に隠棲(いんせい)しました。
 その後、天智天皇が崩御すると、大海人皇子は挙兵し、大友皇子の軍(近江朝廷軍)との戦いが始まります。大海人皇子は吉野から東に身を移し、東国(あずまのくに)からの近江朝廷軍の増援を防ぐため、不破(ふわ)を封鎖しました。十分に兵を集めることができなかった近江朝廷軍は、その後の奮闘及ばず最後は瀬田川(せたがわ)の戦いで大敗し、大友皇子が自害して大海人皇子軍が勝利しました。
 乱の終結後、大海人皇子は天皇に即位(天武天皇)し、天武天皇の崩御後は皇后であった鸕野讃良皇女が持統天皇として皇位を継承しました。天武・持統天皇の時代に国の法律・制度などが整い、古代日本の国づくりが完成しました。
壬申の乱の軌跡を知ろう!
乱の遠因?
白村江(はくそんこう)の戦い(663年)
壬申の乱の軌跡を知ろう!
白村江の戦いで惨敗した倭(日本)。これを機に「国防」の意識が生まれ、対外防備として九州北部から瀬戸内海沿岸の防備を固め、飛鳥から近江大津宮へ遷宮しました(667年)。こうした政策は豪族の大きな負担となり、反感を抱いた豪族の支持を得たことが後の「壬申の乱」で大海人皇子が勝利した一因ともいわれています。
4 不破関跡
岐阜県関ケ原町
大海人皇子軍は、近江朝廷軍への東国からの増援を防ぐため、不破を封鎖。これが大海人皇子軍勝利の鍵となりました。
大海人皇子は不破に入り、野上(のがみ)に行宮(かりみや)を設けました。
9 瀬田川
滋賀県大津市
追い詰められた近江朝廷軍は最後の決戦の場所として瀬田橋の西に陣を構えました。しかし勢いに勝る大海人皇子軍が勝利し、大友皇子はその後自害します。
3 天武天皇迹太川(とおがわ)御遥拝所跡(ごようはいじょあと)
三重県四日市市
東国へ向かった大海人皇子一行が迹太川の辺りで天照大神に勝利を祈願したといわれています。
●記載の日付は、日本書紀記載の日に基づき、旧暦で掲載しています。
●進路図や戦の場所については、紙面の都合上簡略化して表示しています。
また、進路・戦の場所などに関する見解の相違についてはご了承ください。
壬申の乱の軌跡を知ろう!
飛鳥・藤原
飛鳥宮跡は世界遺産を目指す「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産の一つです。壬申の乱後、天武天皇と持統天皇はこの地で一気に国づくりを進めました。東アジアから伝来した思想や技術を活用して古代日本の礎を築きました。「飛鳥・藤原」は日本という国家が形成された時を肌で感じることができる土地です。
吉野歴史資料館
吉野歴史資料館は吉野宮(宮滝遺跡)より出土した遺物を中心に展示をしており、宮滝遺跡まで徒歩で行くこともできます。
開館情報
開館曜日:土・日・祝日のみ(平日は原則、閉館)
開館時間:10時~16時
奈良県周辺の動き
天智天皇の時代、都は近江に遷っていましたが、それまで都は飛鳥にありました。壬申の乱でも、それまで都のあった飛鳥古京は依然として両陣営にとっては重要な拠点であったため、奈良県域でも両軍の激しい戦いが繰り広げられました。
大海人皇子ら一行が吉野から出発した6月下旬、大和にいた大伴連吹負(おおとものむらじふけい)は皇位を継ぐのは大海人皇子であるべきだと考え、戦の準備を始めます。
A 6月29日、吹負はまず飛鳥寺近辺の近江朝廷軍営を奇策を講じて占拠。飛鳥制圧の情報が各地に伝わり、大和にいた有力な豪族たちも吹負の元に集まります。
B 7月1日、吹負の軍は近江を攻めるべく北上を開始。稗田に至った時、河内方面から近江朝廷軍が迫っているとの情報を得た吹負は軍の一部を河内方面への別働隊として西へ向かわせます。
C 河内方面への部隊は、近江朝廷軍の勢いに押され退却。
D 7月4日、吹負の軍も乃楽山にて南下してきた近江朝廷軍と戦いますが、惨敗。しかし逃走中、墨坂で味方の援軍と出会い、金綱井にて兵を立て直し、今度は西からの近江朝廷軍に向かって進軍。
E 当麻の葦池にて近江朝廷軍と戦い、勝利。
F 上ツ道の箸陵付近と中ツ道の村屋付近で戦い、最終的に大海人皇子軍の勝利により奈良県域の戦いは終結。この後、7月22日、近江では大海人皇子軍が瀬田川での決戦に勝利して、壬申の乱は終結に向かいます。
田原本町
7 村屋坐弥冨都比売(むらやにいますみふつひめ)神社・中ツ道
中ツ道にある神社。壬申の乱における大和方面の戦いでは大海人皇子の軍営において、村屋神が近江朝廷軍の襲来を予言しました。後に天武天皇はこの神の位階(いかい)を上げて祀ったと『日本書紀』に記載されています。
村屋坐弥冨都比売神社・中ツ道
桜井市
8 箸陵(箸墓古墳)・上ツ道
一進一退の攻防を繰り広げた奈良盆地での戦い。大海人皇子軍は中ツ道を進軍してきた近江朝廷軍に苦戦しますが、上ツ道での箸陵の戦いでは近江朝廷軍を破りました。勢いに乗った大海人皇子軍は中ツ道の部隊を救援し、この方面での戦いを制しました。
箸陵(箸墓古墳)・上ツ道
明日香村
5 飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)(飛鳥宮跡)
壬申の乱に勝利した大海人皇子がこの地に宮を造り、新しい国の政治を行いました。後の持統天皇即位の儀式もここで行われました。
飛鳥浄御原宮(飛鳥宮跡)
宇陀市
2 菟田の吾城(あき)(阿騎野(あきの)・人麻呂(ひとまろ)公園)
吉野宮を出た大海人皇子一行が、ここで後続たちと合流。その後一行は伊賀、伊勢へと進路を取り美濃へと向かいました。現在この辺りは阿騎野・人麻呂公園として整備されています。
菟田の吾城(阿騎野・人麻呂公園)
写真提供:宇陀市観光課
吉野町
1 吉野宮(宮滝遺跡)
近江大津宮を離れた大海人皇子が大友皇子を討つべく吉野を脱出した地。
吉野宮(宮滝遺跡)
平群町
6 高安城(高安城2号礎石建物)
河内方面からの近江朝廷軍を迎え撃つため、大海人皇子軍が派遣した部隊が陣取った城。山を下って近江朝廷軍に戦いを挑むも、勢いに押されて退却を余儀なくされました。なお、写真は奈良時代のものと推定される建物跡のひとつですが、壬申の乱当時の高安城の場所は明らかになっていません。
高安城(高安城2号礎石建物)
写真提供:平群町教育委員会
壬申の乱に関する特設HP
国家の基礎を完成させる出発点となった壬申の乱。なら記紀・万葉HPでは、壬申の乱に関する情報を随時発信しています。
壬申の乱について学び、その後につづく「飛鳥・藤原」にも思いを馳(は)せながら、奈良のゆかりの地を訪れてはいかがでしょうか。
壬申の乱に関する特設HPは下記から
県文化資源活用課
電話 0742‐27‐8975
FAX 0742‐27‐0213
URL kikimanyo.info/jinshin
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