「飛鳥・藤原」の時代、およそ7世紀代の約100年間に飛鳥宮と藤原宮の2つの宮殿を中心に古代日本の国づくりが行われました。なぜ、この時代に国づくりが行われたのか。その理由を知るには当時の国際情勢を詳しく見ていく必要があります。 この時代、東アジアの政治・文化の中心であった中国は、長い混乱の時代を経て、隋(ずい)(581~618年)、唐(618~907年)により統一されました。隋や唐は皇帝を中心に国を治めるための法体系「律令」を定めて国内を統治する一方、周辺国への影響力を強めるため圧迫し始めました。 これを受けて朝鮮半島の高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)といった国々は、それぞれの国家の存亡をかけて、隋や唐の最新文化や技術を取り入れ、国力の強化を目指しました。 海を隔てた日本も例外ではなく、7世紀初めからは遣隋使や遣唐使などを派遣して国際情勢を探り、最新の文化や国づくりの方法を学んでいきました。3世紀から続けてきた前方後円墳の造営をやめ、政治と儀式の場である宮殿を中心とした都をつくり、国家鎮護のための仏教寺院を建てるなど、東アジアの標準的な首都の建設に取り組みました。「飛鳥・藤原」の構成資産はその国づくりの証拠となる遺跡群なのです。
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