四季折々、美しく彩られる吉野の山々と山裾を縫う清流、吉野川。今回は、その吉野郡吉野町の国栖(くず)が舞台のお話。能『国栖』で語られるハラハラドキドキの物語を辿ってみたい。
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昔、昔、日本の主都が琵琶湖に近い近江大津宮にあった時代、時の天皇である天智天皇が病床に伏し、皇位継承の話がささやかれた。天皇の本心は実子の大友(おおともの)皇子に。それを察した天皇の弟で皇太子の大海人(おおあまの)皇子は危険を感じ、吉野に身を隠した。
能『国栖』はここから始まる。
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釣り竿を持ち、川舟に乗って国栖に住む老夫婦が帰ってくる。と、わが家の上に紫雲(しうん)がたなびいている。紫雲は高貴なしるし。不思議に思い家に入ると、何とそこには冠に直衣(のうし)姿の大海人皇子がおられた。
実は、この皇子の役は、子方(こかた)の少年が演じている。その可憐さに客席の緊張感はにわかに和(なご)む。
聞けば、皇子は二、三日、食事をされていないとか。夫婦は根芹(ねぜり)と国栖魚(鮎)の焼物を差し上げた。
皇子は二人を労(ねぎら)い、鮎の片身を翁に与えた。それを翁が吉凶を占うため吉野川に放つと、不思議や、鮎は生き返り、泳ぎ去った。皇子が天皇になる瑞兆(ずいちょう)だった。
さて、舞台は一転、クライマックスへ。弓矢を持った敵方の追っ手が登場する。翁は皇子を急ぎ、伏せた川舟の中に隠した。(イラスト参照)そして気迫の応戦で追っ手を追い払う。この場面は痛快。
舟から救い出された皇子。少しぐったりしている。客席は、幼い子方が暗い舟の中で耐えていた健気さにグッと胸を熱くする。皇子は、「都に帰った時は、この恩に報いよう」と申され、老夫婦は感涙。
続いて、舞台はにわかに華やぐ。天女が舞い、蔵王権現が出現、来るべき天皇の御代を寿ぎ終演となる。
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大海人皇子は吉野で挙兵、大友皇子軍との激戦(壬申の乱)に勝利し、天武天皇として飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位した。英明な天皇の、日本の新しい国造りはここから始まる。
今年は、その壬申の乱(672年)から1350年の年でもある。