法隆寺について
法隆寺は金堂を中心とした西院伽藍(さいいんがらん)と、夢殿を中心とした東院伽藍(とういんがらん)に分かれています。創建については明らかではありませんが、金堂に安置される薬師如来像の光背(こうはい)の銘文などによると推古15年(607年)とされています。世界最古の木造建造物である金堂をはじめ、各時代の建物が揃っています。
また、現在の西院伽藍の南東方向に、「若草伽藍(わかくさがらん)」と呼ばれる寺院遺跡があります。『日本書紀』によると法隆寺は、天智9年(670年)に焼失したとされ、この記述の真偽を巡って論争が続いていましたが、昭和14年に若草伽藍跡の発掘調査が行われた結果、南北に並んだ塔と金堂の跡が見つかり、出土した瓦などから、若草伽藍は聖徳太子の建立した当初の法隆寺である可能性が高まりました。
東院伽藍は、かつて聖徳太子一族の住まいであった斑鳩宮の跡地に、僧行信によって天平11年(739年)に夢殿を中心として建てられた聖徳太子をまつる寺院でしたが、11世紀頃以降次第に法隆寺と一体化したとみられています。
なお、法隆寺は法起寺とともに、「法隆寺地域の仏教建造物」として平成5年(1993年)に、姫路城とともに日本で最初の世界文化遺産に登録されました。(「いかす・なら」HPより)
・法隆寺HP
法隆寺の修理について
修理は奈良県が法隆寺より受託し、文化財保存事務所法隆寺出張所が直営にて実施します。
※昭和9年から文部省が法隆寺から修理工事の委託を受け、省内に法隆寺国宝保存事業部を、現地には法隆寺国宝保存工事事務所を設けて法隆寺の多数の建造物を順次修理していく大規模な工事を行い、引き続き奈良県が受託を受け現在まで継続して修理をしております。(文化財保護法50年史参照)
・「昭和の大修理」
国宝保存事業により、昭和9年~30年で行われた16件22棟の修理。
この法隆寺の解体修理工事、発掘調査により、我が国の建造物調査の手法が確立されました。
- 建造物保存修理補助事業…国や県から補助金を受けて実施している事業(令和6年現在)
・重要文化財 法隆寺東院礼堂ほか2棟
- 建造物保存修理単独事業…国や県からの補助等を受けずに、お寺の自費で実施している事業(令和6年現在)
・法隆寺西大門
・中院庫裏
建造物保存修理補助事業 重要文化財 法隆寺東院礼堂ほか2棟
東院礼堂はもともと東院伽藍の中門に当り、創立年代は不詳ですが天平宝宇5年(761)の『東院資財帳』の「長七丈 広二丈一尺」とする建物の後身であります。『東院縁起』の貞観(859~876)修理に「七間礼堂一宇」と記され、門と同時に礼堂を兼ねていたと考えられています。
現在の礼堂は鎌倉時代の寛喜3年(1231)の再建で、桁行5間、梁間4間の規模ですが、これは当初桁行7間、梁間2間の中門が、平安時代にそのほぼ中央5間分の桁行5間、梁間3間に建て替えられ、さらに承安2年(1172)に南庇が増築され桁行5間、梁間4間の平面となったのを継承したもので、寛喜再建では南北3尺、東西3尺5寸が拡張されました。
東院廻廊は創立当初、『東院資財帳』より元来は掘立柱で中門(礼堂)の左右から出て北廻廊が夢殿背後を廻っていたとわかります。
現在の廻廊は、嘉禎2年(1236)の再建で、これは、承久元年(1219)に舎利殿絵殿、寛喜3年(1231)に礼堂の改築が行われ、それをつなぐため規模を改めて造営したものです。この頃の寸尺は現在のものと一致していました。
建造物保存修理単独事業 未指定 法隆寺西大門
西大門は、『古今目録抄』によれば、古くは八脚門(中央4本の本柱の他、正面・背面に各4本ずつの合計8本の控柱で建物を支える形式)だと考えられます。また、『古今一陽集』によれば、貞享元年(1684)に焼失したのち、元禄10年(1697)に新造されました。現在の西大門は四脚門(中央2本の本柱の他、正面・背面に2本ずつの合計4本の控柱で建物を支える形式)ながら規模が大きく、かつ随所に蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)などの装飾を用いて仕上げられているため、いっそうの存在感を示します。
門の南内側に付属する番所も門と同時に建てられたものだと考えられます。